虹の会-ホスピスケア@岐阜

クリスマスは岐阜まで日帰りで「虹の会」というホスピスケアの会に参加してきた。

午前は患者会(患者さんとご家族:10時~12時)、午後は遺族会(悲嘆ケア:13時半~15時半)。

参加資格は①がん患者②がん患者の家族、遺族③医療関係者。

部外者(①〜③に該当しない人)は、どんなに立派な経歴の人でもお断りしています、との代表の小野口裕子氏の言葉に強い信念を感じた。私は①と③の立場を行き来しながら居た感じ。


私の患者会のイメージって、しんどさを話して楽になる、みたいな感じだったから、今別にしんどいわけじゃない私は今日は聴き役なのかなとか(烏滸がましくも)思ってたんだけど(もちろんそういう日もあるとは思うけど)、全然違った。患者さんたちが非常にクリエイティブで元気で、心を元気に保つように能動的に努力してて、普通に、めちゃ元気をもらった。

私が敬愛する女性が以前「笑顔になれない理由なんて探さなくてもある、だからニコニコしてなさい」と言ってきたことがあったんだけど、それを思い出した。

今日の患者会でも言ったんだけど、病気とか関係なく、私は気質的に、なんの理由もなくとも、抑うつ気分(なんか落ちてる)になりやすい。それには普段外に出てるときのエネルギー放出過多(出し過ぎ)とか、感覚過敏による易刺激性(特定の光とか音とか肌触りとかがめっちゃ不快で疲れる)とか、空気読めなくて会話が下手とか、意味不明のルールに従えないとか、理想主義的(理想を本気で求めて人にも押し付けたくなりがち)とか、白黒気質(グレーがない)とか、あげたらキリがないが、割と元来の性質そのものが、社会生活をする上で障害となる部分があって、うまくバランス取るのが難しいからなのかなと思う。

今日患者さんの話聞いてたら、みんな、心が落ち込まないように努力してたんだ。私は落ちない努力もしてなければ、落ちてもそのまま放置して、なんなら落ちてしまう自分を嫌悪して疎んだりしてた。

あ、私もどういう時に落ちてんのか自己分析して、そうならないように努力しようと思った。

 

まずは具体的に、どんな時に抑うつになりやすいのかを考えてみる。

・急に暇になった時

・介護の仕事にあんま行けてない時

・人と会ってうまく喋れなかった時

・とりあえず罵倒された時

・寒い時

・雨の時

・背中がこってる時

・自分の誕生日

・食べ過ぎた時

などなど。

 

私は、動けてない時や、予定が遂行できなかった時、抑うつになりやすいと思う。だからってめちゃくちゃ動きすぎても、後で反動が来るような気もする。だけど

・適度に外に出たり

・受け入れてくれる人と話したり

・運動したり

・美味しいものを適量食べたり

・暖まったり

・仕事したり

・まあいいかと思ったり

って書いてみると当たり前すぎるんだけど、こういうことは大事で、それがあまりに簡単にできなくなるからすぐ抑うつになるのかも、と思った。

 

なににせよ、笑顔になれない理由なんて探さなくてもこの世にいっぱいあるってのに、それを一個一個拾ってひとりで落ち込んでるのって、あんま、楽しくないし、意味もない気がした。そりゃ、それぞれが拾わなきゃならないしんどい出来事ももちろんあるんだけど、私は全然拾わなくていいものを拾って落ちてる気がするし、しかも誰のためにもなってなくて(むしろ人に迷惑かけがち)ひとりよがりだし、やめれるならやめたいなーと思ってたとこに、今日の会での気づきがあって、あ、多分やめれるな、やめよ。てゆうか少しくらい努力しよう。という気分になった。

 

私自身は、医学生でがんにもなって、来月形成で傷を治そうと思ってるという話とか、医療者としてホスピスケアに興味があるんだって話とか、少しした。

私が、家庭医療がやりたいと思ったきっかけになった医師が言ってた、「どこにも持っていけない想いを持ってきて話すことができるのが診察室だと思う」っていう言葉を思い出した。

ホスピスケアって、多分そんな感じだ。寄り添うって、多分そんな感じだ。外で、家で、言えないことも、ここに持ってきて、話していいんだよ、誰も拒絶しないよ、大丈夫、大丈夫、っていう、虹の会はそんな感じの印象だった。

 

学びの多い良き一日でした。

写真は帰路(行きは新幹線+名鉄、帰りはJR)

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私の患者成功体験記/ to be a successful patient

「私ががん患者になった話」を書いて、いろんな人が連絡をくれた。大事な話を打ち明けてくれたり、想いを真っ直ぐに伝えてくれたり。書いてよかったなと思った。

 

After writing the former blog about story of myself becoming a cancer patient, many people contacted me telling their and their families’ stories. Basically what I wrote there was that the experience of being told that I have a skin cancer made me realize that I will die one day just like others, just like the old people who I am taking care of at my job, and we aren’t different, we all just live now and will die one day, and that’s why life is precious and fragile, and I want to spend my time for other people’s time to be a bit happier. My cancer seems to have been completely removed and I have no more treatments after the operation that I took in April 2022, but that’s not the point. We all live and are on the path for the death, that’s the same for us all.

 

私は医学部5年生で、毎日、白衣を着て病院にいる。関係者以外には学生だってことはわからないと思う。ぱっと見はおそらく医者。実際は素人と玄人の狭間で、うろ覚えの医学知識と実際の患者さん(症例、などと呼んだりする)を照らし合わせながら、医療の裏側を社会科見学して、憧れたり幻滅したり諦めたり闘志を燃やしたりしてる。私には、理想の医師像ってのがなんとなくあるが、がん患者になってみて、理想の患者像があることに気がついた。それを求めるためには、医師の協力は不可欠だった気がして、色々求めてみたけどあんまりうまくいかなかった。執刀医との関係は今も良好だし、私は彼を信頼もしているけど、その信頼の次元は当初求めたものよりも低い。

キューブラーロスの死の受容のプロセスとか、ショッキングな現実が起きた時に人はどういう経緯を辿っていったらうまいことそれと付き合っていけるか、ってのがある。そういうことを考えながら患者さんをそこに誘導していったり、医療者は考えてると思うのだが、私はその医療者的な視点から私自身に対して、患者として私が歩むべき理想の患者像を追っていた。患者としてなにをどう頑張ったのかを、ちょっと書いてみる。

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I am 5th year medical student toward the end of the year now, everyday at the hospital I wear a white coat following doctors, From outside, I know I look like a doctor. I am in the middle of amateur and professional, I see things from both sides. I realized that when I became a cancer patient, I have a image that in order to accept and live with the disease, “how patient gotta be.”

 

 

①伝えるべき相手に伝える

 

先のブログに述べたように、告知は間抜けなものだったのだが、特に気にしていないので詳細は省く。告知を受けてまず気がついたのは、自分が動揺しているということだった。それが具体的になんていうがんだとか、治療とか予後とかそんなことは関係なしに、「悪性だったよ。」っていうフレーズだけで動揺した。当たり前。その日はバイトまで4時間あって、とりあえずひとりでカラオケに行った。大事な女性に電話をかけたけど音信不通だったので、同居人たちへメッセージを送った。

内容は、「たぶん悪性、病名、予後、転移率、医大でオペ、寛解まで5年、植皮かもでそれはめんどくさいかも」という感じ

読み返してみるとなんかテキトーだなと思ったが、まあ、そういう配慮だった。同居人たちは全員医学の素養がある人たちだったので、調べたければ自分で調べるだろうし、これ以上の話をしたければ、聴きたければ、直接だし、でも帰宅して直接で突然ゼロから話されたら相手が動揺するかもしれないから聞く準備をしてもらっておこう、という意図で送った。「バッドニュースの伝え方」って医学部で話題になるんだけど(医療者が悪いニュースどういうふうに伝えると相手が楽かとか)、これは当事者本人から周りに伝えるときだってそうだった。自分が自分のことを言われて疲れてんのに、そのニュースを伝えられて疲れる相手の疲れをどうやったら少なくできるか、を考えてた。

患者ってタイヘン!と思ったよ。

 

①Tell

After being told that it was malignant, I was kind of upset, not very much but I wasn’t calm. What I did first was calling my important person but she was absent then, so I went to a Karaoke box, isolated myself from outside, then wrote a message to my roommates’ chat group. I said it was maybe malignant, the complete name of the disease, metastasis is rare, maybe surgery at where, prognosis is good, 5year until remission, maybe skin grafting and that’s a bit troublesome. When I wrote this, I tried not to sound too serious but not too easy either, I didn’t want to make them panic but I wanted them to support me in the future in case I panic. So I wanted to give them time to digest a bit then listen to me later when I come home.

 

 

②できるだけ本音で言う

人々に話す時に気をつけたのは、平気なフリをしないこと。割と平気だったので、全然大丈夫ですよという体でも話せたんだけど、不安もあったし、動揺もあったし、それは淡々と話す中で完全に隠さないようにしようと思った。しんどいのはこれからかもしれないし、何のために今話してるかって、しんどい時に助けてほしいと思うからな訳で、私大丈夫ですよって虚勢をはるだけなら、打ち明けている意味がないと私は思った。

 

②be honest as much as possible

I tried not to fake myself when I told people. Actually I was not panicking and not really struggling myself, so I could completely pretend to be super fine. But I didn’t do so as I was telling them things to get their supports in the future in case I fail. I thought it is important not to pretend to be strong.

 

 

③全部見せる相手は選ぶ

だけど、動揺してるんです、どうしよう!!みたいなぐちゃぐちゃのテンションで関わる相手は限定した。それは普段の私生活の延長のようなものでもあり、基本的にはひとりの女性。そして数人の医療者。誰かれ構わず弱さ全開でダダ漏れにするのは良くない。そういうことをしていると、それこそが自分だって勘違いをしやすくなる。ダダ漏れにする相手は限定する。そしてその相手は共依存しない相手が良い。弱さを見せてくれてありがとう私あなたのために頑張るわ!なんていうタイプはダメ。抜けられなくなる。あくまで自分は自分を律して立つことを良しとすることを前提に、座った時には支えてくれる、そういう相手がいい。

 

③choose to whom I show everything

Its also important to choose the ones who you want to show everything. When you are not ok, its important to talk to people, but its not good to show “weak you” to everybody. By doing so, that weak you will become yourself and once it becomes your identity, it is hard to release it. For me, I showed everything to one important lady who is always by myside, and some medical professionals.

 

こうやって、これから検査結果、確定診断を待ってオペ日程決めて術式決めてオペ前の検査して入院してオペ受けて退院して、仕事と実習休む許可もらって保険関係の電話もして書類集めて、入院中に犬のご飯あげる人いること確認して、ってやることいっぱいあって。医療者的な知識で考えると別にそう心配しないといけないこともあまりなかったのだけど、当事者ってのはいろんな可能性を考えるもの。知識があっても、考えるもの。だから支えのベースは整えておくに越したことはない。私は上手にそれをやった。

 

このがんの罹患率は100万分の1〜5人と大学の皮膚科の専門書に書いてあった。そんな数字に当たった後は、どんな数字も意味を持たなくなった。例えば、「99%大丈夫」と言われても、100万分の1〜5の後では、100分の1に当たることなんて普通って感じ。要は、100万分の1〜5でも、私は100万人もいないわけで、ひとりしかいないわけなので、結局患者にとってはどんな病も1分の1でしかない。

 

 

④主治医と話す

オペ前夜、主治医に頼んで面談をした。

忙しい仕事の後に時間とってくれて、もう21時をまわっていた。内容で大事なこと、思い出せること、列挙する。

 

オペを明日受けるか迷っている。

私は、先生を信頼していない、信頼していない人に手術された傷跡は、見るたびに私を嫌な気持ちにするだろう。信頼があれば、傷跡も良い思い出にすら思えるだろう。

全てが勝手に決められていっている気がする。私の話なのに私は置いてきぼりに感じている。

先生は私がオペを受けて回復して卒業して医者になって5年後寛解して医者やってるという未来を想像しているだろうし、それを元に治療を決めているけど、そこで先生がイメージしてる私って別に私っていう個人じゃないですよね。誰でもないですよね。

私はそのどこにもいない。だって、あなたは私を知らない。

私は私から逃げることができない。患者は疾患から、患者自身から、逃げることができない。特に寛解まで5年通うのだし、主治医というのは、その逃げることができない患者自身から共に逃げずに、共に生きてくれる人ではないか。私は医者とはそういうものだと思って医学生をやっている。

私は自分で決めなければいけない。

私がこういう気持ちだということを伝えるべきだと思ったから伝えた。

先生はこういう話を聞きたいタイプの医者ですか?

 

④Talk to the doctor

A night before my operation, I asked my doctor who was going to perform a surgery, to talk with me. I said

I am not sure if I should go for it. I am not being able to trust you, I think when I see the scar on my belly, if it was done by someone who I don’t really trust, I feel bluer looking at it. But  for example, if it was done by my loved one, malformed belly might even become a funny memory and I might smile looking at it.

I feel everything has been decided leaving me behind. Its my story but I am being left.

You must be imaging my future, taking a surgery tomorrow, graduating the medical school then becoming a doctor, maybe nothing happens until 5 years remission, and for that future, you decided the treatment plan for me, you say it is for me. But the “me” you say, you imagine , is it really “me”? I feel its nobody, it is not Miyu but nobody because you don’t know me.

Patients cannot run away from their condition or themselves, I see “doctor” as someone who also never run away from the patients no matter what happens, I see "doctor" as someone who live with the patients. I am a medical student, and that’s what doctor means to me.

I thought I should make my own decision. I thought I should tell you my thoughts.

Are you a doctor who wants to listen?

 

 

⑤自己決定

主治医の返答は大事ではない。

大事なのは、私はこういう時間を取ってからオペに臨んだということ。

「自律」自分で決める、ということ。

それをここで行うことに成功したと思う。治療の選択は一つしかないという体で全てが始まって流れるがままにお腹が切られようとしている中で、割と急に衝動的に、嫌だー、これじゃだめだ!ってなった。それは私が「全人的医療」とは何かとか「患者の自己決定権の尊重」とかそういう話題に触れてきたせいもあるだろうし、身近に、共に生きてくれる医療者がいるし、共に生きようとして患者と向き合う医療者も見てきているからだろう。もやもやしたものを抱えたままでお腹切られるなんて、あってはならないと思った。

オペ3日後に、再出血による緊急再手術になるのだけど、その時に、オペ前に主治医と話しておいてよかった、自分で決めたオペでよかったと本当に思った。だって2回目の時は貧血だったしリアルに具合が悪くて、要はオペ受けたせいで血が出てて再手術になってるわけだったので、自分で決めてなかったらもう気持ちのやり場もなかったんじゃないかなあと思う。治療ってなんでもリスクがつきものなので、緊急性があって自分でゆっくり考えてる場合じゃない(私の2回目みたいに)時をのぞいては、しっかり考えて自分で決めたほうがいい。そうじゃないと、思いもよらないことになった時に、しんどくなると思う。病院では、思いもよらないことなんて毎日起きていることを私は知っている。医療者は知っている。知らない患者は、置いてきぼりをくらう。会話は、大事。

 

⑤self-determination

That 45 minutes talk with my doctor was important for me.  The doctor’s response isn’t important. The important is that I decided about me going for operation, choosing him as my surgent, by myself.

3 days after the surgery, I was in the operation theater again, it was an emergent operation due to re-bleeding and blood loss. That time, I had no time to think, I was awake but it was really sudden for everybody, I literally had no choice. So, it was really important for me that I had made my decision myself for the first surgery. If It wasn’t so, I think I had regretted or panicked for a long time due to the second operation. I could stand it because it was a result of a thing I decided myself. When something unexpected happens, you may not know how to accept, digest, understand, and such if you are outsider of your own treatment. And I know at hospital. Happening of unexpected things can be very much expected.

 

 

⑥得られるまで支援を求める

病棟の廊下に「がんの緩和ケアは診断された時から始まっています。ご相談ください。」みたいなポスターが貼ってあった。私は術後にお腹も痛いし貧血だし、再手術は怖かったからトラウマっぽかったし、私の心も緩和されたい!と思ったので相談してみたら、対象外っぽかった。うーん、緩和ケアチームに繋いでるのはもっとステージの進んだ人たちで……と。(あくまで私が入院した病院の話でその決まりは病院により様々です。ステージIのがんの告知から緩和ケアが介入する病院もあります。)言ってることはわかるが、ええええーって思った。そして、「緩和ケアチームに繋いでもらえませんか」とオペ無事成功して帰るだけの私が言っている、この言葉の裏の気持ち(なんかしらしんどいのかなって)を考えてくれたのは看護師さんたちだった。

 

細井先生が言ってた。がんのいろんな治療をしてきて最期ホスピスに来た患者さん、おそらく後1週間くらいで亡くなる方が聞いてきた。

「先生、私は治りますか?」

その言葉は、YES or NO が欲しくて出たわけじゃない。

その言葉の裏にある気持ちはなんなのか細井先生は考える。

「治るかはわからない。でも最期までしっかりと診ます。」その言葉で患者さんは、ありがとうございますと先生の手を握ったそう。

 

この話を細井先生に聞いたのは退院後だったのだが、ああ私もそうだと思った。緩和ケアに繋がれる?YES or NOが聞きたかったんじゃない。ねえなんかちょっと不安なんだけど、誰かそれを助けてくれたりしないかなあっていう気持ちだったわけで、NOの理由が聞きたかったんじゃない。

 

ちなみにその時に頼りにしてた看護師さんとは今も仲良し。医療者と患者の関係が終わって、医療者同士の関係に近くなった今は色々医療者としての相談にものってくれる。

患者さんって患者さんになった瞬間に、なんか当たり前にやってたことできなくなって、あれもだめこれもだめって思ってしまって自分自身でいられなくなるんだと思う、だからその人を人として見て、その人から学べるところを探して、人として向き合ってると言っていた。

入院中、別に特別何をしてもらったわけでも相談したわけでもなかったんだが、彼女のそういうスタンスは私には何も言わなくても透けて見えていた。だから信頼していた。

 

病院で緩和ケアにつないでくれないなら、と思って細井先生に連絡とって、がん患者の会とかないですか?と聞いてみたら講演会に誘われてその後もご縁が続いている。精神疾患を患う医師が書いた、「しんどい時の自分の守り方」という本に、周りに助けを求めてみて。ひとり目には拒絶されるかもしれないけど、5人くらい求めれば誰か助けてくれる、みたいなことが書いてあった。

 

こういうのは、ハマるかどうか、なんだと思う。緩和ケアは無理だよって私に言った医者だって全然悪い人でもなんでもなく、彼こそを必要とする患者も瞬間も必ず居る/ある。ただそれが私に、私のその瞬間に、ハマるのかどうか。全ての人にとっての救世主なんていない、というかそれは神の領域になる。ああー不安だなとかなんかうまくいかないなって思ったら、支援を探してみたらいい。特に病院、特に難病やがん、の患者は助けて!って言っていいですよって感じもあるし、心の緩和ケア大事ですって医療のテーマになってるくらいなので、是非求めたらいい。それは患者としての権利だ。でも、うまくハマらなくてもすねない。私はすねたけど。笑

 

⑥look for supports until you get it

It is patients’ right to look for support. If you ask for support, maybe the first person says no. But try 5 times at least. Someone will support you.

 

 

⑦人のためになる

スピリチュアルな健康とは、私は生きていてもいいのだという根底からの自信、のようなものだとヨーガ療法で習った。私は生きていてもいいのだ、私は愛しまれるべき存在なのだ、そういう感覚を何をもって得やすいかは人による。私は奉仕が趣味なんだと思う。前のブログで書いたように、人が楽になるために生きる、それを実践できると自分が楽になっていく。災害復興支援とかでもそうだが、人にしてもらってるばかりだと心が病みやすくなる。

 

もしもあなたが動けなくても、話せなくても、あなたは必要とされている。それを知ることは、あなたを健康にする。

 

⑦Do something for others

Humans cannot live healthy when only being supported by others. We all want to be supported and want to support. There is ways a way. Even if you cannot move at all, even if you cannot speak,  you are needed, and experience of realizing you are needed make you well.

 

 

結構うまく患者さんを出来たよなあと思っている。こんなに気をつけてても、色んな衝動やストレスがあったし、その都度消化してもしきれなかったものもあったし、それはそれで大事に持って生きていけばいいのだと思う。

私が健やかなのは、私が上手に患者さんを出来ているからだと思うから、誰かの参考になるといいなと思うし、思うこと有ればまた教えてほしい。

 

I did pretty well as a petient. I think I'm healthy now because I did it pretty well. I had lots of knowledge and I was thinking a lot, I always knew who to talk to and what to do, but even so, there were moments that I was stressed and it came out of somewhere unexpected. 
I'm happy if my story gives you some lights and I'm looking forward to listening to your stories too.

 

私ががん患者になった話

私ががん患者になったのは2022年の春のことで、それで何が変わったか、ざっくり言うとがん患者になったおかげでどういう良いことがあったかを書こうと思ってる。そういうわけでちょっと遡ったところから話は始まる。でも先にひとつ言っておくが私のがんはオペで取ってしまったし、オペ以外に治療が必要なかった。「がん」という言葉に引きずられて大袈裟に捉えてもらうことは全く本意ではない。でも、どんながんでも、別の病気でも、もしあなたやあなたの大事な人が罹患していて、ちょっとミユに話してみようかなという気になったとしたらそれはいつも歓迎する。私はいつも、話すことで救われてきた人だから、あなたの話も聞きたいと思う。

 

2020年の9月にひとつめのグループホームで介護士として働き始めて、2021年の3月から大学を休学、5月からふたつめのグループホームで働き始めて2カ所を兼業した。全然雰囲気の違うふたつのホームを行き来していた。

2022年の1月に復学し、ひとつめを辞めて、今はふたつめだけで働きつつ、医学部5年生の病院臨床実習に行ってる。ひとつめを辞めたのは、お看取りまでご一緒させてもらえるような仕組みが整った施設ではなかったから。入居者さんの状態が変化すると別の施設や病院に移って行くしかなくて、突然さよならしなきゃいけないことが多かった。その寄り添いのあり方が中途半端に感じて、この人たちの人生の終末の時間を共に過ごさせてもらっているのなら、最期のその瞬間まで一緒にいたいと思ったから、それができるところを探した。今いる施設は最期までご一緒するベースが整った施設。

 

といっても、グループホームは1ユニット9名定員で、2ユニットあるから全部で18人で、病院とか特養という施設のように毎週お看取りがあるみたいに入れ替わりが激しいわけではない。10年暮らす人だっている。だけどほとんど皆さん90歳前後なので、お別れは時間的にはそんなに遠くない未来には訪れる人が多い。

 

数名の方々と最期を共に過ごさせていただいてきたなかで、ホスピスに興味を持つようになった。ホスピスケアの視点を取り入れて働いたら、入居者も家族もそしてスタッフも、もう少し楽になれるんじゃないか、と考えた。それで、昨年末にヴォーリズ記念病院のホスピスの細井順医師を訪ねてお話をうかがった。細井先生は元外科医だが、お父さんの死を転機にホスピス医になり、その後ご自身もがんを経験したことで患者(ホスピスを利用できるのはがん患者とエイズ患者なので実質先生の患者は皆がん患者)さんたちのことがやっとわかった、と著書にも書いている。会いにいった時に細井先生に言われたのは、こうなって欲しいとかそういう自分の見返りを求めることを捨てて、ただただ目の前の相手のために、やってみなさいということ。

 

昨年末に先生に会った時は私は精一杯に真剣な顔をしてたけど、相手ではなくて自分のために介護をやっていたし、見返りってすごく求めていたし、なんなら周りから自分がどう見られるかとかも気にして介護をしていた。とても偽善的だったし、当事者のフリをしてたけどなんかこういうテーマ色々を面白がって刺激を受けているだけの部外者だったし傍観者だったと思う。それが変わったのが、私自身ががん患者になった時。なった時というか、その瞬間に変わったものもあれば、今日までかけてゆっくり変わっていっているものもある。

 

秋吉久美子が、お父さんの肺がんの告知を「当て逃げのようながん告知」と言っていた。読売新聞(よみドクター)のインタビュー記事だったと思うが、ものすごくわかりやすい。これは自身の体験というよりは、医学生として外来見学をしていて出くわす場面だ。これからの生を共に背負う覚悟もない医者に無意味にオオゴトを無神経にパーンと放たれて傷つけられっぱなしの患者を見ると胸が痛む。私の告知もなんだか本当に間の抜けた、気遣いの感じられないものだったんだが、私自身がそれでそこまで傷ついたわけでもないので、実体験の方はほとんど笑い話だ。だけど私が傷つかなかったのは、どうすればいいか知ってたからだと思う。誰に相談してどうやって調べて、どう理解したらいいか、医学生なので、知っていたから、別にその診察室の中で何かが解決しなくてもそれを後で外で解決させる術はいくらでも浮かんだから、なんだこりゃ、まあとりあえずいいか、と。

 

告知を受けてから同居人たちと大事な女性と懇意の医者と看護師に連絡した。話す前はちょっと緊張した。私は話をすることがそもそも非常に得意で、しかも相手全員の理解力が総じて非常に高かったので、大事なことをしっかりと伝えることができた。同じテーブルの上に乗ることができた、と思った。あー、このプロセスが非常に困難だから、最初から同じところにいる事で同じテーブルの上に乗れるように、告知の時は家族を呼んでくださいとか言われるのだなと納得した。言葉でこれをするのはなかなか困難だ。傷ついてる気持ちとかしんどさとかも共有したいなら尚更困難だと思う。できたけど、いやーこれは難しいだろうなと思った。実際、母に全部話したのはオペを終えて、がんが完全に取り切れたという生検の結果が出てからだった。オペまでは良性腫瘍と言っておいていた。私を心配する母を想うだけの余裕を作る余裕がなかった。大事な人に心配されるのは、自分に余裕がある時に限る。ちなみに父には話が通じる気がしなくてもうめんどくさくて今も何も話してない。

 

がんは皮膚の希少癌(めずらしいがん)。皮膚科医しか知らないんじゃないか、というくらい知名度が低いやつ。入院は2022年4月末から5月頭まで10日間だった。バルーン(おしっこの管)入れられてると本当におしっこ行かなくていいんだと知った。便秘がヤバくてしかしチカラ入れると腹が痛いし自分で摘便した。ベッド上で動けない時の世界を知った。ベッド真横のゴミ箱の位置を掃除の時に少し変えられるともう届かなかった。私の苦痛に一緒に向き合おうとしてくれる医者はいなかった気がした(本人たちがどう思ってるかは知らない)けど、看護師はいた。ガチの貧血を経験した。上手いこと止血されなくて3日後緊急で再手術になって、あ、死ぬかもって思った時に優しかった麻酔科医たちは本当に良き想い出で、のちに実習で再会して超感動した。術後歩き出した初日、院内を歩いてて、健常者(に見える人)たちの歩くスピードの速さが怖かった。ぶつかられたら倒れるなって感じだったので、配慮のなさそうな歩き方の医療者がずんずんこっちに向かってきた時はとりあえず足を止めた。あ、道端で自転車の私を見てとりあえず止まる老人は、そういうことだったのか、と知って、えー止まんなくても大丈夫だよみゆぶつかんないしとか思ってた自分を反省した。

 

がんっていう単語はやはりそれなりにインパクトが強かった。そのインパクトだけで、私もいつかちゃんと死ぬのだと、当たり前をやっと理解した。

そして、グループホームの認知症老人たちも私も全く同じように、必ず死ぬのだと気づいた。

そしたら自分のやりたいことがなんなのか、突然、言葉になった。

 

「他者に確実に訪れる死までの短い時間が少しでも善いものに、少しでも楽なものになるように、私に確実に訪れる死までの短い時間に尽力すること」

(と言ったら同居人の協力隊同期は、またえらい自己犠牲的やな、と笑っていた。笑)

 

ようは、大きな括りで見たら私もあなたもどうせすぐ死ぬんだけど、だから意味ないんじゃなくて、だからこそ儚くて、尊くて、大事にする。老人介護、老年医療って生産性がないとか、老人助けても先が短いとか言われたりするし、ちょっとそれは私も思ってたんだけど、そういう思想が私の中から一切なくなった。いや、老人だけじゃなくてみんなどうせ死ぬし、それは一緒だよ。ってなった。

だからその時までをどれだけ穏やかに過ごせるか、そういうことを考えて支えて共に生きていくっていう、そういうことがしたいのだなということがわかった。

 

そして周りの人々は結構優しくて、

私が私の時間を他者の楽のために費やすのみではなく

生きるとは

他者が他者の時間を私の楽のために費やすことを受け入れ受け止める

ことでもあると気づいた。

 

入院中に細井先生に再度コンタクトを取った。というのも入院中、こんな程度のがんでは不安になったり荒れたりする資格はありませんよ、と言われている気がしていたので、がん患者の会とか行ってみたいと思って、そして細井先生はきっと私のココロを緩和してくれるだろうと思って、連絡した。私の考えは正しかった。細井先生の、当たり前に相手のためでしかない声かけ。それはよくわかる。

ホスピスナースが言ってたが、病気でしんどい時ってこれ以上しんどくなりたくないから、センサーがすごく敏感になってて、自分にとって害なものと良いものとを一瞬で嗅ぎ分けるんだって。私もそうだった。あの時、周りにいる人が、嘘ついてるかどうかはすぐわかった気がした。本気で私を見てるのか、ポーズだけなのか。

優しい自分、尽くしてる自分、為になってる自分、に喜んでるようでは、だめだね、ということ。そんなのはすぐにバレる。

書いてて今気づいたけど、私の職場のグループホームには、そういう胡散臭い人が、すごい少ない。なんなら私が結構上位で胡散臭いかもしれない。だからあそこに居たいのかな。

 

というように色々と思うことあって、退院後もしばらく貧血だったり、衝動的に術痕がものすごい嫌になったりもした。全部ひっくるめて総じて仕舞えば、なんて価値のある体験だったのでしょう。こんな体験を、34年間生きてきて、それなり以上に生きづらさも抱えた思春期を過ごして、40カ国以上まわってきて、最先進国と最貧国に暮らしてきて、こんなに学びの大きかった体験を、他にはしていない。私が医療に興味を持つきっかけになった看護師さんが、病気は人を成長させるって言ってた。それ聞いた時は、まあそりゃそうでしょって思ってたけど、本当でした。

 

細井先生に初めて会った時の私に比べたら今の私の方が少しは本気で、相手のためを想ってるんじゃないかなあという気がする。いや今みゆそれどころじゃないし、みたいなのも自分で以前より意識化できているから、そういう意味でそこまで偽善的ではないかなとも思う。

 

細井先生に2回目に会った時に、ホスピスの患者さんに対して「僕は生きる人、あなたは死ぬ人」って分けないよ、ただの人と人でしかないよ、と言っていた。「私は健常者、あなたは認知症」じゃないし、「私は治る、あなたは治らない」じゃないし、もちろんその逆でもないよ。

互いに、今生きていて、そのうち死ぬ、それだけなんだろう。

 

 

ケースバイケースかもしれないけど

私の場合はこの病は、忖度なしにギフトだったよ。


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オペ後に。この犬は私が出歩いてる時にベッドに座らせて置いておいたのでナースさんたちがカーテン開けて一瞬本物と思ってびっくりしたと次々言っていたが、本物感はあんまりない。1年前に亡くなった入居者さんのものでみゆの宝物。ラブちゃんのが大事だけど。

 

P.S. 今はもうすぐ術後半年で、とっくに退院してとっくに仕事も大学も復帰して夜勤もして自転車も乗ってます。

 

認知症と老人と介護と医療

私は父方の祖父母とは疎遠だった。祖母とは毎年正月に数時間会っていたけど、両親の空気を感じ取ってか、居心地が良くはなかった。あれはおそらく私が18歳くらいの正月、祖母が「テレビが夜中に勝手につく」と言った。心霊現象かと思った。のちに、認知症の初期症状だったことがわかった。祖母は、高齢者住宅で一人暮らしをしていた。外の人間の介入を嫌う人だったので、バリアフリーのマンションで、援助なしの一人暮らしだった。今後どうしようか、なんて話を両親がしていた頃、私はひとりでニューヨークに引っ越して、祖母のことは一度も思い出さずに生活していた。

 

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1年後くらいか、祖母が施設に入ったと知った。夏休みか何かで短期帰国した際にひとりで施設に行ってみた。行かないと自分が薄情な気がしたのと、彼女がどうなってるのか見てみたいだけだった。そもそも大して交流のなかった私は、受付で祖母の名前を聞かれて、名字を知らないと言った。受付の人に、同じ名字じゃないですか?と言われた。私と祖母は同じ名字だった。「お孫さん(私)お綺麗ですね、桜井さん(祖母)もお綺麗ですもんね。」と受付で言われて、私が綺麗なこととあの人が綺麗なことと何の関係があるのだろうと一瞬本気で思った。あ、血がつながっているのか。私にとって彼女はそれほど、遠い存在だった。

 

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認知症は私が知っていた頃より随分と進んでいるように見えた。常用していた度の強い近視用眼鏡はもう顔にかかっていなかった。私のことはわからなかった。わかるわけがないので、それに関しては何の驚きも感想もなかった。私は認知症というものが身近ではなくて、祖母も身近ではなかったので、彼女と一緒にいるのがなんだか恐ろしくて、施設の人に同行を頼んでいた。特に話したいこともない私の面会は5分以内で終わったと思う。エレベーター前で別れる時、祖母は満面の笑みを見せた。笑ってますよ、と私が言うと、若くて明るい女性職員は「何の意味もありませんから!」と笑った。今思うとこの発言はあんまりよろしくない気もするが、その時の私はただ面食らって、そういうものか、この人明るいなあ、すごいなあ、こんな仕事は私は絶対できないな、と思っていた。

 

それが私が生きている祖母を見た最後だったので、笑顔だったのは良かったことのような気がした。

 

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私は2020年の9月から、認知症のグループホームでバイトで介護職をしている。祖母が入っていたのは多分有料老人ホームとかだと思うのでちょっと違うが、介護のバイトに興味を持った私があえて老人施設を選んだのは、祖母のことが影響しているのかなあと思ったりする。

 

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私の趣味は考えること。

とにかく考えることが増えそうな場所に身を置くのを好む。アフリカとか医学部とか介護とか、人が生きることと死ぬことの近くに行って、色々考えたいんだと思う。アフリカ生活はだいぶ面白かった。いっぱい考えて楽しかった。介護も、だいぶ面白い。

 

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最初に働いた職場の上司に、看護師にはできなくて介護士にしかできないことってなんですか、と聞いたら、「介護士は利用者さんと共にする時間が長いから生活に寄り添える」と言われたのがとても印象に残っている。一方で、初任者研修(介護の資格)の講義で出会った看護師に同じ質問をしたら、ありません!と言われた。看護師を介護士の上位資格だと思っている人は多い気がする。たしかに介護士の業務には、看護学生が実習中に看護師資格なしで実践していいこと、が沢山あるとは思う。例えば排泄交換とか、病気じゃない人の爪切りとか、食事介助とか、要は、非医行為だ。確かに介護業務は資格を必要としないものがほとんどだ。だけど、介護は業務ではないんだ。

 

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介護職の専門性は、看護師とも医師とも全然違う次元にある。同一線上で「介護職<看護職<医師職」となっているわけではなくて、この3つは絶対に同一円内にあるけど、同一線状にはない。私は、介護職の専門性は、利用者さんの観察を徹底することで可能になる、微細な変化を感じ取ることだと思う。そしてその専門性を駆使するためには、西洋医学の知識や視点は、邪魔だと思う。少なくとも、介護職としても医療者としても未熟な私には、医療的視点を取っ払って利用者さんをひたすら観察し、そこから変化を感じるのは非常に困難だった。医学的知識が、先に立ってしまった。

 

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医療知識に乏しい介護士が持ち得るものに、利用者さんへの寄り添いと、ひたすらにそれを重ねてきた経験しかないが故に研ぎ澄まされた感覚で察知する状態変化がある。盲目の人にしか聴こえない音や感じれないエネルギーがあるように、知識が限定されているからこそ辿り着ける繊細な感覚があると思う。

 

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私は、基本的には介護職に医療知識が必要だとは思っていない。もちろん、連携する医師が介護士に特に観察してほしい所見があれば都度理由も含め学ぶのは良いと思う。私が言いたいのは、医療知識があることと、介護職の質とは関係がないということだ。

 

介護士の質とは、寄り添う力のことだと思う。

 

介護は業務ではないと書いたが、質の低い介護現場は、業務をこなすことを仕事と捉えているのではないだろうか。利用者さんたちは、生活をしている。彼らは時間では動いておらず、気分や体調や天気や温度や色々なものが絡み合って成る、その日のそれぞれのリズムでただ家(グループホーム)で生活している。私たちは決まったシフトでここにやってきて、基本的にはタイムスケジュールに沿って動いている。時間で動くことを、利用者さんに押し付ける。タイムスケジュール(時間に沿った計画)に追われるのは、楽だ。それだけが仕事になれば、介護の本質である、「観察」もまた「寄り添い」も必要なくなるからだ。

 

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この、自分にとっての職場が、利用者さんにとっての生活の場だということを本当に意識したのは、夜勤をするようになってからだと思う。夜の仕事にもタイムスケジュールはあるが、それは排泄交換とか生存確認とかで、基本的にはここに居ることが仕事だ。何かをするというよりも、ここにしっかり居ることで、利用者さんたちの安全を守るのが仕事だ。

 

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夜勤は、長時間だ。ひとつの施設では17:00-9:00(16時間)、もうひとつの施設では16:00-9:30(17時間半)拘束だ。こんな長時間を、緊張感のある仕事モードで過ごしたら、疲れ果ててしまうので、こちらも利用者さん同様に、ゆったりモードで疲れないように過ごすことになる。夜勤はスタッフはひとりなので、スタッフ主導でホームの空気を作ったりはしない。スタッフは、利用者さんたちの家に入れてもらっている感じが強くなって、一緒に夜を越す。昼間とは全く違った、利用者さん主導のホームの中で、ここがどこなのかを再認識した気がする。利用者さん主導の空間だという当たり前に気づかせてもらったことが、夜勤をするようになって良かったと思う最大の理由だ。

 

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時間と業務に追われてしまうと、ここがどこなのか、今この目の前の人はどうしているのか、そういうことが見えなくなる。びっくりするほど簡単に見えなくなる。私が誰で、この人が誰で、どう関係してて、っていうそういうことがわかんないところで人間を置き去りにして仕事をしたくない。介護現場でそうなってしまいがちなのは多分、自分と向き合うことも、人と向き合うことも、覚悟のいることで、結構大変なことで、しんどいことだから、なんじゃないかなと思う。

 

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2021年3月からつい最近(2022年1月半)まで休学していたんだが、その間に考えてたことは上記のような感じ。ちなみに今も夜勤中。

The rose

Some say love, it is a river that drowns the tender reed

人は、愛は柔らかい葦を呑み込む川だと云う

Some say love, it is a razor that leaves your soul to bleed

人は、愛は魂から血を流させる鋭い刃だと云う

Some say love, it is a hunger, an endless aching need

人は、愛は飢えであり、永遠に疼く欠乏だと云う

I say love, it is a flower. And you, its only seed.

私は、愛は花だと言う あなたはその唯一の種なのだ

 


It’s the heart, afraid of breaking that never learns to dance

壊れることを恐れるこころは、踊ることを知ることは決してない

It’s the dream afraid of waking, that never takes the chance

夢から覚めることを恐れるならば、機をつかむことは決してない

It’s the one who won’t be taken who cannot seem to give

君が奪われることを許さなければ、与えることもできないかもしれない

And the soul, afraid of dying that never learns to live

死を恐れる魂は、生きることを知ることは決してない

 


When the night has been too lonely 

夜がさみしすぎて

And the road has been too long

道が永すぎて

And you think that love is only for the lucky and the strong

愛が幸運で強い人のためだけに在ると感じる時

Just remember in the winter far beneath the bitter snows 

lies the seed that with the sun’s love, in the spring becomes the rose

思い出して

冬には厳しい雪たちのはるか下に横たわる種が

春には太陽の愛とともに薔薇色に地を染めることを

 


唄  Bette Midler
歌詞 Amanda McBroom

 

邦訳 Miyu Leilani

家庭医療

浅井東診療所は滋賀県の長浜駅からバスで1時間くらいの、野瀬という地域にある。外来と、訪問診療と、往診と、色々してて、同じ建物内にデイケアもある。

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医者になりたいなんて思ったことはなかった。素敵な医者には患者として何人か出逢ったけど、別に自分がしたいとも、できるとも思っていなかった。浅井東診療所で5日間過ごして、初めて、この仕事やりたいかもって思った。

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医学生をしていると、医者になるのは大前提で、その上で診療科を選ぶのが通常だと思う。だけど医者にはかなりいろんな働き方があって、診療科で、働く場所で、全く別の職業になるほど、色々ある。医者にはなるんだけど、何科がいいかなあってのは多分私にとっては、〜大学行って一流企業には就職するんだけどどの会社にしようかなあ、みたいな感覚に似てて、そういう職業選択の仕方は、私には向いていない。

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浅井東診療所は、家庭医療で有名らしい。良く調べもせず、直感的にここだなと思ってやってきて、家庭医療科とか家庭医療専門医とかそんなものがあることを知った。

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臨床実習で、医者って、看護師って、こんなに患者から遠いんだ。じゃあ私、近くに居たいから介護士やろう、と思った。したいのは、寄り添うこと。それは、介護士にしかできないんだろうか、寄り添ってる医療者もいるんじゃないのか、と思った。それで、それを見に、ここに来た。

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5日間いて、家庭医は、良いなあと思った。看護師って良いなあって思った。生活に寄り添い、共有し、受け止め、考え、共にある、そういう職業を私は尊いと感じる。でも医療者は介護士ほどの時間を共にするわけではないから、介護士にしかできないこと、感じれないこと、は無限にある。介護士の良さってその、無限なところじゃないかな。

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これなら私やりたいかもしれないと、家庭医に対して思った直後に、看護師さんの素晴らしさに心を打たれて、私やっぱり看護師がしたい、と思った。

 

あー感動したなあ。ありがとう。

To accept and love fear and confusion/ 恐れと混乱を応諾して愛しむこと

It was maybe 12 years ago that I took Atsushi Takenochi's workshop at CAVE. I remember the moment that my body moved with natural instintion without thinking, and that feeling was something very new to my body, which I felt the truth inside. So I continued Butoh since then.

 

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12 years ago in NY, USA

 

初めて竹之内淳さんのワークショップを取ったのはおそらく12年前、ニューヨークのCAVEで。身体と対峙することに不慣れだった私が、演劇から踊りに移行するきっかけになったのがこの時の彼のワークショップだった。頭と関係なく、身体が勝手に自然にただ動いた、その感覚が初めてで、絶対的な真実を感じて、舞踏を続けると良いことがあると思った。

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12 years ago in front of CAVE!!!!

 

This time during the pandemic of Covid-19, he started to give donation based zoom workshops from Italy. I participated this time 3hours x 3 days in Shiga, Japan in my house using the living room where my dog sleeps as a dance studio. People from so many different time zones joined at once and we got connected. It was a new strange feeling to be with people's souls this way and it was actually strong.

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2016 in Diebougou, Burkina Faso with Miyamoto and Ousman Traoré (creation of Yuko Kaseki- NyamaNyama 2016)

 

新型コロナの流行禍でイタリア在住の彼は世界にズームでワークショップを始めた。今回は3時間を3日間、イタリアは朝、日本は夜だった。私は滋賀の自宅のリビングで、犬と踊った。一階を踊れるスペースに作っておいて良かった。全然違う時間を生きている人たちが一度に参加して、つながった。すごく不思議な感覚だった。力強かった。

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2016 Diebougou, Burkina Faso with Miyamoto and Sophia Remolde (Imprvisation - NyamaNyama 2016)

 

I am now living the moment of big confusion in my life but as improvising guided by the words of his, I think I somehow came to just look at my fear from distance instead of being inside of it, and let it just be. He says fear is an essential element of life. I'd like to let it be, accept as it be, and love.

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11 years ago in Aomori, Japan (creation of Mari Osanai)

 

今、私は人生の中の混乱の時を過ごしている。淳さんの言葉に導かれて、恐れの中に自身を存在させる代わりにそれを離れたところから観て当然のものとしてそこに在らせる、ことが少しできたと思う。彼は恐れは生命にとって必須だという。ただそこに在らせ、認め、愛することが出来ればきっと良いのだと思う。

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2020 Aomori Japan (Creation of Mari Osanai)

 

Just looking at yourself from distance instead of being inside of it, and let it just be is what my yoga therapist always tells me. When we do this kind of meditative practice in yoga therapy, I always felt that I knew this thing from dance, and now I'm trying to explore, somehow understand it a bit deeper and know what is happening.

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2015 Diebougou, Burkina Faso with Cheick Ouattara and Mihee Suh  (Photo: Mihee Suh)

 

その中に閉じこもるのではなく、自身を遠くから離れて観て、ただそれをそうなのだと応諾する、というのは私のヨガ療法士が私によく言うことだ。瞑想的な手法でこういう練習をするときいつも、この感覚を私は今まで踊りで経験してきたと感じていた。今は、より深く広く探求して、出来れば何が起きているかも含めて、少し理解したいと思う。

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 2015 Diebougou, Burkina Faso with Adama Traore  (Photo: Mihee Suh)

 

Since the beginning of this month, I took a year off from my university. What I've been doing this month is taking and learning Yoga therapy, taking Butoh workshop, taking acupuncture twice a week, working as a caregiver at "group home" where people with dementia live, and learning caregiving by taking some courses outside the school, meeting the people I like and returning back to myself. When I'm ready, I should start "giving" as I'm "taking" too much right now. 

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2015 Diebougou, Burkina Faso with Shota Yamasaki and Yoshihiro Kai  (Photo: Mihee Suh)

 

月初め(2021年3月)から大学を1年間休学している。今月やってたのは、ヨガ療法を受けることと学ぶこと、舞踏のワークショップを受けること、週2で鍼の施術を受けること、グループホームで介護の仕事をすること、介護職員初任者研修の講座を受けること、好きな人たちに会うこと、私自身に戻っていくために。今は「受ける」ことばかりなので、そのうち、次は「与える」ことをしたい。

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2015 Diebougou, Burkina Faso with Frankie Pink  (Photo: Mihee Suh)

 

NyamaNyama was the art festival that I organized in Burkina Faso with Mihee Suh and Cheick Ouattara in 2015 and 2016, and I want to make it happen again and again.

 

 

 

 AND

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she was dancing with me