ヨガ療法士に、例えばホスピスで、死をストンと受け入れることができたとしたら、それで終わりですか?
と聞かれて、頭が止まった。
やりたいことがあれば、やれるようにしたいとは思う。例えば最期は家でとか決めたなら、それが叶うようにとは思う。けど…。
と返した。
ホスピスの人も、私もみゆさんも、ひとつの場所に向かって死ぬまで生きていくだけじゃないですか?
そんなニュアンスのことを彼女は言った。
その後、ホスピスの医師に、質問してみた。
死をストンと受け入れたら、それでおしまいですか?
そこからまた苦しみが始まるよ。
と医師は言った。
ちょっと衝撃的な答えだった。
え、そうなの!?って返事したと思う。
死への受容のお手伝いが出来たらいいと漠然と思っていた。でも私自身がしっかりそこに到達していないのなら、そりゃあその先のことはわかってないわなと、おそらくそこにかなり到達してるであろう身近な仙人級の人々2名と話して、再認識した。
私が向かうのはどこだろう。
向かいたい場所と向かってる場所と向かうべき場所と、合ってるだろうか。
変わらないひとつのその場所はきっとずっと変わっていないのに、それを酷く変動的に捉えてしまっている私の目線自体が、苦しみの根源となるんだろうか。
がん告知を受けてから人生が変わった、という話を昨日聞いたが、その話は肯定的な変化についてだったんだが、そこで修正されたのは、その変わらない場所への認知だろうか。
昔々、好きな人に対して駆け引きみたいな会話をしようとしていたら、「I'm not your toy!」とキレられたことがある。それに近いことを、人生においてずっとやっているような気がする。本当に行く先を誤魔化して、目先の虚像に翻弄されることで誤魔化して、愚痴を言って凌いでいるだけなんじゃないか。
だけどそのタイミング、変わらない場所への認知の修正とそれにより生じる心地よいばかりでは決してない変化は、人に強制できるものではないし、自分の意思だけではおそらく決めることは難しいのだと思う。
それは医師という職に就いても同じ。みんながそこに達するわけではない。全然、ない。
今日は、ここまで。
これ以上書くと嘘が出てきそうなのと
卒試の勉強した方がいいのと
@コメダ珈琲大津京店