認知症と老人と介護と医療

私は父方の祖父母とは疎遠だった。祖母とは毎年正月に数時間会っていたけど、両親の空気を感じ取ってか、居心地が良くはなかった。あれはおそらく私が18歳くらいの正月、祖母が「テレビが夜中に勝手につく」と言った。心霊現象かと思った。のちに、認知症の初期症状だったことがわかった。祖母は、高齢者住宅で一人暮らしをしていた。外の人間の介入を嫌う人だったので、バリアフリーのマンションで、援助なしの一人暮らしだった。今後どうしようか、なんて話を両親がしていた頃、私はひとりでニューヨークに引っ越して、祖母のことは一度も思い出さずに生活していた。

 

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1年後くらいか、祖母が施設に入ったと知った。夏休みか何かで短期帰国した際にひとりで施設に行ってみた。行かないと自分が薄情な気がしたのと、彼女がどうなってるのか見てみたいだけだった。そもそも大して交流のなかった私は、受付で祖母の名前を聞かれて、名字を知らないと言った。受付の人に、同じ名字じゃないですか?と言われた。私と祖母は同じ名字だった。「お孫さん(私)お綺麗ですね、桜井さん(祖母)もお綺麗ですもんね。」と受付で言われて、私が綺麗なこととあの人が綺麗なことと何の関係があるのだろうと一瞬本気で思った。あ、血がつながっているのか。私にとって彼女はそれほど、遠い存在だった。

 

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認知症は私が知っていた頃より随分と進んでいるように見えた。常用していた度の強い近視用眼鏡はもう顔にかかっていなかった。私のことはわからなかった。わかるわけがないので、それに関しては何の驚きも感想もなかった。私は認知症というものが身近ではなくて、祖母も身近ではなかったので、彼女と一緒にいるのがなんだか恐ろしくて、施設の人に同行を頼んでいた。特に話したいこともない私の面会は5分以内で終わったと思う。エレベーター前で別れる時、祖母は満面の笑みを見せた。笑ってますよ、と私が言うと、若くて明るい女性職員は「何の意味もありませんから!」と笑った。今思うとこの発言はあんまりよろしくない気もするが、その時の私はただ面食らって、そういうものか、この人明るいなあ、すごいなあ、こんな仕事は私は絶対できないな、と思っていた。

 

それが私が生きている祖母を見た最後だったので、笑顔だったのは良かったことのような気がした。

 

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私は2020年の9月から、認知症のグループホームでバイトで介護職をしている。祖母が入っていたのは多分有料老人ホームとかだと思うのでちょっと違うが、介護のバイトに興味を持った私があえて老人施設を選んだのは、祖母のことが影響しているのかなあと思ったりする。

 

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私の趣味は考えること。

とにかく考えることが増えそうな場所に身を置くのを好む。アフリカとか医学部とか介護とか、人が生きることと死ぬことの近くに行って、色々考えたいんだと思う。アフリカ生活はだいぶ面白かった。いっぱい考えて楽しかった。介護も、だいぶ面白い。

 

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最初に働いた職場の上司に、看護師にはできなくて介護士にしかできないことってなんですか、と聞いたら、「介護士は利用者さんと共にする時間が長いから生活に寄り添える」と言われたのがとても印象に残っている。一方で、初任者研修(介護の資格)の講義で出会った看護師に同じ質問をしたら、ありません!と言われた。看護師を介護士の上位資格だと思っている人は多い気がする。たしかに介護士の業務には、看護学生が実習中に看護師資格なしで実践していいこと、が沢山あるとは思う。例えば排泄交換とか、病気じゃない人の爪切りとか、食事介助とか、要は、非医行為だ。確かに介護業務は資格を必要としないものがほとんどだ。だけど、介護は業務ではないんだ。

 

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介護職の専門性は、看護師とも医師とも全然違う次元にある。同一線上で「介護職<看護職<医師職」となっているわけではなくて、この3つは絶対に同一円内にあるけど、同一線状にはない。私は、介護職の専門性は、利用者さんの観察を徹底することで可能になる、微細な変化を感じ取ることだと思う。そしてその専門性を駆使するためには、西洋医学の知識や視点は、邪魔だと思う。少なくとも、介護職としても医療者としても未熟な私には、医療的視点を取っ払って利用者さんをひたすら観察し、そこから変化を感じるのは非常に困難だった。医学的知識が、先に立ってしまった。

 

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医療知識に乏しい介護士が持ち得るものに、利用者さんへの寄り添いと、ひたすらにそれを重ねてきた経験しかないが故に研ぎ澄まされた感覚で察知する状態変化がある。盲目の人にしか聴こえない音や感じれないエネルギーがあるように、知識が限定されているからこそ辿り着ける繊細な感覚があると思う。

 

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私は、基本的には介護職に医療知識が必要だとは思っていない。もちろん、連携する医師が介護士に特に観察してほしい所見があれば都度理由も含め学ぶのは良いと思う。私が言いたいのは、医療知識があることと、介護職の質とは関係がないということだ。

 

介護士の質とは、寄り添う力のことだと思う。

 

介護は業務ではないと書いたが、質の低い介護現場は、業務をこなすことを仕事と捉えているのではないだろうか。利用者さんたちは、生活をしている。彼らは時間では動いておらず、気分や体調や天気や温度や色々なものが絡み合って成る、その日のそれぞれのリズムでただ家(グループホーム)で生活している。私たちは決まったシフトでここにやってきて、基本的にはタイムスケジュールに沿って動いている。時間で動くことを、利用者さんに押し付ける。タイムスケジュール(時間に沿った計画)に追われるのは、楽だ。それだけが仕事になれば、介護の本質である、「観察」もまた「寄り添い」も必要なくなるからだ。

 

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この、自分にとっての職場が、利用者さんにとっての生活の場だということを本当に意識したのは、夜勤をするようになってからだと思う。夜の仕事にもタイムスケジュールはあるが、それは排泄交換とか生存確認とかで、基本的にはここに居ることが仕事だ。何かをするというよりも、ここにしっかり居ることで、利用者さんたちの安全を守るのが仕事だ。

 

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夜勤は、長時間だ。ひとつの施設では17:00-9:00(16時間)、もうひとつの施設では16:00-9:30(17時間半)拘束だ。こんな長時間を、緊張感のある仕事モードで過ごしたら、疲れ果ててしまうので、こちらも利用者さん同様に、ゆったりモードで疲れないように過ごすことになる。夜勤はスタッフはひとりなので、スタッフ主導でホームの空気を作ったりはしない。スタッフは、利用者さんたちの家に入れてもらっている感じが強くなって、一緒に夜を越す。昼間とは全く違った、利用者さん主導のホームの中で、ここがどこなのかを再認識した気がする。利用者さん主導の空間だという当たり前に気づかせてもらったことが、夜勤をするようになって良かったと思う最大の理由だ。

 

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時間と業務に追われてしまうと、ここがどこなのか、今この目の前の人はどうしているのか、そういうことが見えなくなる。びっくりするほど簡単に見えなくなる。私が誰で、この人が誰で、どう関係してて、っていうそういうことがわかんないところで人間を置き去りにして仕事をしたくない。介護現場でそうなってしまいがちなのは多分、自分と向き合うことも、人と向き合うことも、覚悟のいることで、結構大変なことで、しんどいことだから、なんじゃないかなと思う。

 

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2021年3月からつい最近(2022年1月半)まで休学していたんだが、その間に考えてたことは上記のような感じ。ちなみに今も夜勤中。