私ががん患者になった話

私ががん患者になったのは2022年の春のことで、それで何が変わったか、ざっくり言うとがん患者になったおかげでどういう良いことがあったかを書こうと思ってる。そういうわけでちょっと遡ったところから話は始まる。でも先にひとつ言っておくが私のがんはオペで取ってしまったし、オペ以外に治療が必要なかった。「がん」という言葉に引きずられて大袈裟に捉えてもらうことは全く本意ではない。でも、どんながんでも、別の病気でも、もしあなたやあなたの大事な人が罹患していて、ちょっとミユに話してみようかなという気になったとしたらそれはいつも歓迎する。私はいつも、話すことで救われてきた人だから、あなたの話も聞きたいと思う。

 

2020年の9月にひとつめのグループホームで介護士として働き始めて、2021年の3月から大学を休学、5月からふたつめのグループホームで働き始めて2カ所を兼業した。全然雰囲気の違うふたつのホームを行き来していた。

2022年の1月に復学し、ひとつめを辞めて、今はふたつめだけで働きつつ、医学部5年生の病院臨床実習に行ってる。ひとつめを辞めたのは、お看取りまでご一緒させてもらえるような仕組みが整った施設ではなかったから。入居者さんの状態が変化すると別の施設や病院に移って行くしかなくて、突然さよならしなきゃいけないことが多かった。その寄り添いのあり方が中途半端に感じて、この人たちの人生の終末の時間を共に過ごさせてもらっているのなら、最期のその瞬間まで一緒にいたいと思ったから、それができるところを探した。今いる施設は最期までご一緒するベースが整った施設。

 

といっても、グループホームは1ユニット9名定員で、2ユニットあるから全部で18人で、病院とか特養という施設のように毎週お看取りがあるみたいに入れ替わりが激しいわけではない。10年暮らす人だっている。だけどほとんど皆さん90歳前後なので、お別れは時間的にはそんなに遠くない未来には訪れる人が多い。

 

数名の方々と最期を共に過ごさせていただいてきたなかで、ホスピスに興味を持つようになった。ホスピスケアの視点を取り入れて働いたら、入居者も家族もそしてスタッフも、もう少し楽になれるんじゃないか、と考えた。それで、昨年末にヴォーリズ記念病院のホスピスの細井順医師を訪ねてお話をうかがった。細井先生は元外科医だが、お父さんの死を転機にホスピス医になり、その後ご自身もがんを経験したことで患者(ホスピスを利用できるのはがん患者とエイズ患者なので実質先生の患者は皆がん患者)さんたちのことがやっとわかった、と著書にも書いている。会いにいった時に細井先生に言われたのは、こうなって欲しいとかそういう自分の見返りを求めることを捨てて、ただただ目の前の相手のために、やってみなさいということ。

 

昨年末に先生に会った時は私は精一杯に真剣な顔をしてたけど、相手ではなくて自分のために介護をやっていたし、見返りってすごく求めていたし、なんなら周りから自分がどう見られるかとかも気にして介護をしていた。とても偽善的だったし、当事者のフリをしてたけどなんかこういうテーマ色々を面白がって刺激を受けているだけの部外者だったし傍観者だったと思う。それが変わったのが、私自身ががん患者になった時。なった時というか、その瞬間に変わったものもあれば、今日までかけてゆっくり変わっていっているものもある。

 

秋吉久美子が、お父さんの肺がんの告知を「当て逃げのようながん告知」と言っていた。読売新聞(よみドクター)のインタビュー記事だったと思うが、ものすごくわかりやすい。これは自身の体験というよりは、医学生として外来見学をしていて出くわす場面だ。これからの生を共に背負う覚悟もない医者に無意味にオオゴトを無神経にパーンと放たれて傷つけられっぱなしの患者を見ると胸が痛む。私の告知もなんだか本当に間の抜けた、気遣いの感じられないものだったんだが、私自身がそれでそこまで傷ついたわけでもないので、実体験の方はほとんど笑い話だ。だけど私が傷つかなかったのは、どうすればいいか知ってたからだと思う。誰に相談してどうやって調べて、どう理解したらいいか、医学生なので、知っていたから、別にその診察室の中で何かが解決しなくてもそれを後で外で解決させる術はいくらでも浮かんだから、なんだこりゃ、まあとりあえずいいか、と。

 

告知を受けてから同居人たちと大事な女性と懇意の医者と看護師に連絡した。話す前はちょっと緊張した。私は話をすることがそもそも非常に得意で、しかも相手全員の理解力が総じて非常に高かったので、大事なことをしっかりと伝えることができた。同じテーブルの上に乗ることができた、と思った。あー、このプロセスが非常に困難だから、最初から同じところにいる事で同じテーブルの上に乗れるように、告知の時は家族を呼んでくださいとか言われるのだなと納得した。言葉でこれをするのはなかなか困難だ。傷ついてる気持ちとかしんどさとかも共有したいなら尚更困難だと思う。できたけど、いやーこれは難しいだろうなと思った。実際、母に全部話したのはオペを終えて、がんが完全に取り切れたという生検の結果が出てからだった。オペまでは良性腫瘍と言っておいていた。私を心配する母を想うだけの余裕を作る余裕がなかった。大事な人に心配されるのは、自分に余裕がある時に限る。ちなみに父には話が通じる気がしなくてもうめんどくさくて今も何も話してない。

 

がんは皮膚の希少癌(めずらしいがん)。皮膚科医しか知らないんじゃないか、というくらい知名度が低いやつ。入院は2022年4月末から5月頭まで10日間だった。バルーン(おしっこの管)入れられてると本当におしっこ行かなくていいんだと知った。便秘がヤバくてしかしチカラ入れると腹が痛いし自分で摘便した。ベッド上で動けない時の世界を知った。ベッド真横のゴミ箱の位置を掃除の時に少し変えられるともう届かなかった。私の苦痛に一緒に向き合おうとしてくれる医者はいなかった気がした(本人たちがどう思ってるかは知らない)けど、看護師はいた。ガチの貧血を経験した。上手いこと止血されなくて3日後緊急で再手術になって、あ、死ぬかもって思った時に優しかった麻酔科医たちは本当に良き想い出で、のちに実習で再会して超感動した。術後歩き出した初日、院内を歩いてて、健常者(に見える人)たちの歩くスピードの速さが怖かった。ぶつかられたら倒れるなって感じだったので、配慮のなさそうな歩き方の医療者がずんずんこっちに向かってきた時はとりあえず足を止めた。あ、道端で自転車の私を見てとりあえず止まる老人は、そういうことだったのか、と知って、えー止まんなくても大丈夫だよみゆぶつかんないしとか思ってた自分を反省した。

 

がんっていう単語はやはりそれなりにインパクトが強かった。そのインパクトだけで、私もいつかちゃんと死ぬのだと、当たり前をやっと理解した。

そして、グループホームの認知症老人たちも私も全く同じように、必ず死ぬのだと気づいた。

そしたら自分のやりたいことがなんなのか、突然、言葉になった。

 

「他者に確実に訪れる死までの短い時間が少しでも善いものに、少しでも楽なものになるように、私に確実に訪れる死までの短い時間に尽力すること」

(と言ったら同居人の協力隊同期は、またえらい自己犠牲的やな、と笑っていた。笑)

 

ようは、大きな括りで見たら私もあなたもどうせすぐ死ぬんだけど、だから意味ないんじゃなくて、だからこそ儚くて、尊くて、大事にする。老人介護、老年医療って生産性がないとか、老人助けても先が短いとか言われたりするし、ちょっとそれは私も思ってたんだけど、そういう思想が私の中から一切なくなった。いや、老人だけじゃなくてみんなどうせ死ぬし、それは一緒だよ。ってなった。

だからその時までをどれだけ穏やかに過ごせるか、そういうことを考えて支えて共に生きていくっていう、そういうことがしたいのだなということがわかった。

 

そして周りの人々は結構優しくて、

私が私の時間を他者の楽のために費やすのみではなく

生きるとは

他者が他者の時間を私の楽のために費やすことを受け入れ受け止める

ことでもあると気づいた。

 

入院中に細井先生に再度コンタクトを取った。というのも入院中、こんな程度のがんでは不安になったり荒れたりする資格はありませんよ、と言われている気がしていたので、がん患者の会とか行ってみたいと思って、そして細井先生はきっと私のココロを緩和してくれるだろうと思って、連絡した。私の考えは正しかった。細井先生の、当たり前に相手のためでしかない声かけ。それはよくわかる。

ホスピスナースが言ってたが、病気でしんどい時ってこれ以上しんどくなりたくないから、センサーがすごく敏感になってて、自分にとって害なものと良いものとを一瞬で嗅ぎ分けるんだって。私もそうだった。あの時、周りにいる人が、嘘ついてるかどうかはすぐわかった気がした。本気で私を見てるのか、ポーズだけなのか。

優しい自分、尽くしてる自分、為になってる自分、に喜んでるようでは、だめだね、ということ。そんなのはすぐにバレる。

書いてて今気づいたけど、私の職場のグループホームには、そういう胡散臭い人が、すごい少ない。なんなら私が結構上位で胡散臭いかもしれない。だからあそこに居たいのかな。

 

というように色々と思うことあって、退院後もしばらく貧血だったり、衝動的に術痕がものすごい嫌になったりもした。全部ひっくるめて総じて仕舞えば、なんて価値のある体験だったのでしょう。こんな体験を、34年間生きてきて、それなり以上に生きづらさも抱えた思春期を過ごして、40カ国以上まわってきて、最先進国と最貧国に暮らしてきて、こんなに学びの大きかった体験を、他にはしていない。私が医療に興味を持つきっかけになった看護師さんが、病気は人を成長させるって言ってた。それ聞いた時は、まあそりゃそうでしょって思ってたけど、本当でした。

 

細井先生に初めて会った時の私に比べたら今の私の方が少しは本気で、相手のためを想ってるんじゃないかなあという気がする。いや今みゆそれどころじゃないし、みたいなのも自分で以前より意識化できているから、そういう意味でそこまで偽善的ではないかなとも思う。

 

細井先生に2回目に会った時に、ホスピスの患者さんに対して「僕は生きる人、あなたは死ぬ人」って分けないよ、ただの人と人でしかないよ、と言っていた。「私は健常者、あなたは認知症」じゃないし、「私は治る、あなたは治らない」じゃないし、もちろんその逆でもないよ。

互いに、今生きていて、そのうち死ぬ、それだけなんだろう。

 

 

ケースバイケースかもしれないけど

私の場合はこの病は、忖度なしにギフトだったよ。


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オペ後に。この犬は私が出歩いてる時にベッドに座らせて置いておいたのでナースさんたちがカーテン開けて一瞬本物と思ってびっくりしたと次々言っていたが、本物感はあんまりない。1年前に亡くなった入居者さんのものでみゆの宝物。ラブちゃんのが大事だけど。

 

P.S. 今はもうすぐ術後半年で、とっくに退院してとっくに仕事も大学も復帰して夜勤もして自転車も乗ってます。