たんたんと、つまらない中で

舞台芸術が天職だと確信した16歳の時は医者になるなんて思いもしなかったが、30歳目前にして唐突に医療を選んだ理由のひとつに、アートよりわかりやすく人を助けてる実感が欲しい気がした、というのがある。助けるのは一方通行じゃダメで、助け合わないと助けてる実感で満足などできない。つまらないなあとずっと思ってるのは、今いる医療現場ではそういうものを結局全然感じないせいかも。当たり前だが、帰りを待ってる犬との方が、助け合いの実感はよほど強い。

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アートのわけわからん感じの合戦みたいなのにはニューヨーク出る時には既に飽きていた。ニューヨークには前衛的と言われるようなアートがいっぱいで、そういうものをそういう系の場所で公演するとそういう系のアーティストが見に来て、そういう系の中での新しい感じとか古い感じとかが目まぐるしく変化していくけど、それに追いつくことに一体何の意味があるんだ、と思い始めていた。アーティストのための、アートのためのアート、に飽きていた。ひとつひとつはワクワクドキドキするし確かに面白いんだけど、でももっとそこにいて、アートを作り続けたいという気持ちにはならなかった。最前線のことは最前線の人にしかわからなくて、それをずっとわかることに価値を見出さなかった。多分だから、出てきた。一生暮らすかもと思って引っ越したけど、6年弱で出て、そんでブルキナに行った。

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今もちょっと似てるのは、医療のための医療に、患者も、自分も、価値を見出せていないので、なんだかお互い何のために何やってんだか宙ぶらりんな感じがするんだろう。アートのためのアートは大衆を置き去りにして、医療のための医療は患者を置き去りにする。医学生の時みたいに、それにムカついたり意義を唱えたりはしない。ただ、そういうものに自分は興味がない、からどうにもつまらない、というだけだと思う。

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できる業務は増えていく。そりゃそうだ。そういうのは別に苦手でもない。でもそもそも私は、介護士の時からすでに、「業務」に興味がない。「医療は生活のツール」って浅井の特別養護老人ホームのスローガンのひとつだけど、やっぱそれに共感する。じゃあなんでそっちにすぐ行かないのかって、まあ多分、優しいヤブ医者でいいと思っていたのだけど、このままだとヤブすぎる気もしたから、今はつまらないけど修行期間なんだろう。嫌になったら、もしくはもうそろそろこの程度のヤブでもいいかと思えたら、人のための医療がベースの現場に移ろうと思う。多分、ガイドラインや決まりごとの医療よりも、対話が先にある現場なんだと思う。それは絵空事ではないことは、私はもう知っている。あー、もうちょっともうちょっと、と思って、ゆるりと今のこの場所に身を置こう。

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Photo from 2023. July

2年目の腹部外科ローテ、周術期の不安定

腹部外科ローテが始まって1週間、他科ローテでは経験しない負荷のかかり方が自分にしている気がして、理由を考えていた。毎朝胸が重いような感覚があり、疲れが抜けなかった。腹部外科は研修医1年目で必修で2ヶ月まわって、今回は1ヶ月選択で、つまり自分で希望してまわらせてもらってる。去年と違うのは、ちょっと訳あって今年はオペに入らず病棟管理メインでやらせてもらっていることと、自分が医者2年目だということだ。

 

緩和ケア志望ということが、腹部外科を選択した理由なので、がん患者さんを主に訪ねて話を聞いたりしてる。オペ見学も主にがん患者さん中心で、そのまま術後も会いに行かせてもらっている。周術期の方が多いが、緩和ケアの方もいたり、うちの病院の外科は食道がんの放射線や化学療法中の方もいる。皆さん、人生の一大事の時に入院していて、中々繊細で不安定な中、そこに居る。

 

今回は周術期の患者さんについて書く。今回私の仕事にオペ助手というのがないため、病棟で患者さんたちのいろんな繊細さに触れる時間が去年より長くて濃い実感がある。そもそも、「がん」の診断を受けるという大きなストレスとそれに向き合って折り合いをつけてきて人によっては術前化学療法を乗り越えて手術まできて、どうなるかわからない不安の中入院して手術日を迎える。術前に症状がある人も全くない人も、手術をしているのだから術後は管が身体から出ていたり点滴されていたり痛みがあったりで「身体も不安定」にさせられる。そうなると自分で診断名と恐怖感にどうにか折り合いをつけて安定したように見えたこころもまた不安定が襲いやすい。身体の具合が悪い時、こころも具合は悪くなりやすい。術後は確かに身体は具合悪いが、具合悪すぎて何も考えられないほどではないことがほとんどなので、具合の悪さにこころが不安になるだけの体力は十分にある。そして術後は日ごとに目覚ましい勢いで体力は回復していくし、それで今度は身体の回復に伴ってこころもまた変化する。病気によっては術後食事がうまくいかなくて、一生こうなってしまうのかという別の不安が不安定を助長させることもある。そういう色んな不安定になる要素が凝集しながら日々変化する周術期の入院生活の中で、自分を律し保とうとする患者さんも多い。強くあろうとすることが、いっときの不安定を乗り越える力をくれたりする。そういう患者さんに想いを吐露させてしまう関わりをすると、不安定を引き戻してしまったりするし、それはあんまり相手のためになっていなかったりする。周り(の医者)と足並みを揃えること、それも患者さんの毎日の安定に貢献するし、優しすぎたり聞いてあげすぎたりする私の異質さが不安定を産むこともある。そういうふうに感じるのは、2年目になってからだと思う。少し視野が広がっていっている途上にいると思う。

 

目指すのは、良いバランス。本当に必要な時に気づいてあげること、そして私たちが話を聞こうと思っていることに患者さんに気づいてもらうこと、それだけでいい。患者さんが強くあろうと頑張っている時は、気づかない顔してそれを応援すればいい。だけど、主治医ではなく、周術期に初めましてをする関係の中でそのバランスをうまく取るのはとても難しい。それがうまくいかずに疲れた一週目だったのかもしれない、という考察をしてる。もう少し俯瞰して、今相手がどういうところにいて、どうやって毎日を頑張っているのか、どうありたくて、それをどうサポートできるか、よく見てみるのが来週の目標。やはり、腹部外科は学びが多い。

 

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3年半前、自分の周術期の回復期の写真

来年の研修先

昨日、初期研修後の働き先を決めた。

日本では、医学部に大体6年行って(私は学士編入なので4年半しか行ってない)医師免許を取ったら、2年間の初期研修(俗にいう研修医、今これ)をして毎月変わる色んな科で働いて、そのあとは診療科を絞って3-4年の後期研修(この立場を後期研修医とか専攻医とか呼ぶ)というものを経て、専門医試験を受けて、〜専門医という肩書きができる。というのが割と一般的な道筋だと思う。

来年からは今いる病院の小児科で後期研修をしようと、昨日決めた。決断はいつも突然する。今週小児科で2回目のローテしてて、NICUでカルテ打ってた時に、ああやっぱとりあえず小児科にするかとなって、翌日部長に言った。ブルキナファソに行ってなければ医師になってはいないのだろうが、ブルキナファソで医療するなら小児をちゃんと診たい、ということとか、日本で家庭医するにしても発達外来や不登校の併走者をやりたい、とか社会と繋がりの深い分野で医療して色々考えたい、とかそういう感じ。別に小児科医になりたいわけではなく、ワクワクしているわけでもないし、やはり将来的には緩和ケアと家庭医療が良いかと思うけど、まずは小児科から始めてみよう、という感じ。

今、プライベートでも色々大きく動いていて、不安定極まりない中で、進路を決めるのは少しこわかった。まあでも、なるようにしかならないので、なるようにはなるので大丈夫。こんなことにこわさを覚えること自体、日本に毒されちまってるなと思う。Ça va aller! そもそもça va très bien y il n'y a aucun problème. 何も悪いことは起きていない。ブルキナべみたいに未来に過度な期待をせずに、自分の手の内にあるものの小ささを知り、その日暮らしでこなしていけば良いだろう。

4月〜5月にテキサスの病院で研修した時は、ああやっぱりアメリカで医者やろうと思ったんだけど、めんどくさくなった。めんどくさいの奥には多分それする方向に行かない何かの理由があって、色々あるけど、大きいのは、今から母親を置いて長期海外に行こうとはなんかどうにも思えない、んだと思う。今行ったらもう帰ってこなそうだし。と言っても別に東京で暮らす予定はないんだけど、ちょっとアメリカは今じゃない、んだと思う。犬ももう推定12歳だし。

だけど、15歳の私が東京の女子校でアメリカ人のクラスメイトたちと出会い(カナダ、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツからも来てたけど大きな衝撃はアメリカ人だった)その奔放さに感銘を受け、新しい言語を知りその言語の中の自分の自由さに出会い、19歳でアメリカに行っちゃったというのは本当にラッキーで大正解だったと思う。うちの母は教育熱心ではあったかもしれないが、両親2人とも日本から出たことがないので、高校でのあの色んな出会いがなかったら私には多分海外は遠かった。今この窮屈な自国で自由に暮らせるのは、自分の中にいる他言語たちと他文化たちのサポートのおかげだと思う。

自分の発達特性に由来するのかもしれないが、私はどうでも良いことをどうでも良くないフリしてこなしたりすることがとても苦手だ。普通はこうするとか、決まりだからとか、そういう理由で物事を行えない。中高の時なんて、毎日、今日は学校に行くのがいいかどうかを考えてた。だから全然行ってなかった。本当によく卒業させてくれたと思う。ちなみにこんな人でもテスト受かれば医者になれるのは、笑えるし、いいことだと思う。初等教育と、やればできるという気持ちにしてくれた養育環境の賜物でもある。毎日働くとか無理やろ、と思っていたし今も思っている。ああ無理ってなると休むけど、でも私なりには良くやってると思うし、こんなもんで社会人をやらせてくれる場所は、意外とある。もちろん思春期みたいに毎日が切羽詰まってギリギリの中で今日の最善を選びとる必要とかはないので、平穏な中で仕事に行ってる。

特にワクワク感の強い行き先を選ばなかった自分に、変化を感じている。歳とった感じもする。これまでは衝動的に最も面白そうなドラマティックな行き先を突然選んでしばらくハマって突き進む、的な感じだったけど、なんか、どっしりしたなと思う。別にそんなにワクワクしなくても生きていけるようになりつつあるんだろう。まあ、一般よりはそれでも毎日ドラマティックだとは思うけど。面白い。ああ、大変だった思春期から、長生きしたなあ。

最近思ってるのは、そのうちケニアで数年暮らそうかなあと。ブルキナなんか危なそうだし、ケニアにはちほと、ちほの子がいるし。色々暮らしやすそう。その話はまた今度。

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With my dear friends Miori and Marissa on Galveston Island, Texas.

手稲で初期研修もうすぐ一年

ここを初期研修先に選んだ理由のひとつは、心の充電がしたかったから。

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元々“変わった子供”だったのかもと今となると思い返すけど、その後舞台芸術の世界にいき、アメリカとブルキナファソに住んで4ヶ国語話者になって日本に戻った自分は性質だけでなく文化的なことも “変わった人“になっていて、滋賀の医大ではあんまりそれがうまくハマらないというか、価値も見出せなくなり、自己嫌悪に陥った。日本でよくある構図と思う。

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ニューヨークに住んでいた時は色んな人が当たり前にいて気楽だったし、その中で私はどっちかというとむしろ“ちゃんとした人”だったと思うし 笑、いいねいいねと言ってくれる人に囲まれてたから、自信持って楽しく生きてたので、それに近い環境かもと唯一思ったところを初期研修先に選んだ。

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昨日、滋賀で色々相談に乗ってくれてた人と少し久しぶりに連絡をとって、この一年で結構充電されたなと思ったし、でもまだ途中だなとも思った。まだこの病院から出てずっと遠くとか滋賀とかで働くのはちょっと怖いな、的なことを思った。「どこででもやれる、ということもひとつの能力かもしれないが、それをみゆができる必要はなくて、自分が輝ける場所に居たらそれでいい」、という内容を言われ、ああそうだなと思った。私が得意とすることも結構あるしそれをウキウキしながらアクティブにやってる時は基本楽しいし、まあ大体ド派手なことをあっけらかんとやっていたりもするのだけど、そういうことができる時はそもそも自信を持ててる時だから、今は調子が良い、と再認識した。

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苦手なこともあって、粗相もするし、たまに仕事も休むし、全然話聞いてなかったりもするし、失言して反感買うこともあるし、あーまじ無理うるさいと耳を塞ぐこともあるけど、でもベースの自分が自分を良しとして生きているのだったらそんなことたちは瑣末なこと。それをオオゴトにして大きな問題にしたがるのは基本的には自分自身で、そういう自己否定的な自己防衛に走ってやっとこさ生きるのは、あんまり楽しくない。やめることができて、よかった。

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滋賀にいた時、気分循環症と診断されて投薬を受けてた時期がある。当時は診断された事実自体に困ってたけど、今の自分の理解としては、躁鬱気質による適応障害と発達傾向の顕在化、みたいな状態だったと思う。それを診断した精神科医は非常に有能で熱い変わり者のおじさんで、私にとっては元主治医で、指導医的な人でもあって、大学の先輩であって、卒後は友人関係だったし、私が相談にのる側になっていた。その人は、昨年、自死した。熱いベテラン精神科医のその人がそういう風にこの世を去ったことは、自分自身への戒めのようでもあり、あまり聞かない診断名をつけてくれたことへの一時的な猜疑心みたいなものを生じさせもした。結局、診断名にどうアイデンティティを見出すか、どう付き合って生きていくか、そもそもそれを存在させるのかは自分が決めるしかないのだなと思った。だからその悲しいイベントはなんだか私にとって、しがらみからの解放のようなプロセスを提供してくれもして、想像しなかった影響があった。

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そう。ちょっと脱線するが、常々思うことだけど、診断名は、しがらみになりやすさを多分にはらんでいる。「悪性だったよ(私)」も「ADHDですね〜(友人)」も然り、自分のアイデンティティが望んでないのに増えてしまうような、そういう弊害がある。診断する時は診断する意義が自分じゃなくて相手のためにないといけない。できればその後も、診断してよかったとなるために関わっていけたら良い。

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ともだち

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仕事内容はほとんどそんなに面白くはないのだが、まあそういう時間があってもいいとも思う。充電する、初期研修を終える、という目的しかないのだから、今はこれでいい。

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研修医一年目はよくできました💮。研修医二年目も、超苦手な場所からは距離を置いて耳を塞いで、ストレスは話して、文章にして消化して、のびのび、のびのび、やれたらいい。そういう空気感で自分が生きてれば、ああそれでいいのか、と思う誰かもいるかもしれない、とも思う。

緩和医療がしたいんじゃなくて、医療って緩和的だから

研修医半年たった。ずっと感じてること言葉にしてみる。

 

緩和医療に興味があるというと終末期かと思われがちなんだが、そういうわけではない。私にとっての医療がそもそも緩和であるというか、緩和でしかないというか。それを説明しようと試みる。

 

緩和か否かは治療可能か不可能か、ということではない。どっちも緩和だと思う。

例えば手術で「命を救っている」として、それが善であるとされるのは生が善で死が悪だから、なんてことではもちろんなくて、単にそれにより患者が緩和されるからなんじゃないか。

例えば手術で「命が救われた」としても本人が全然緩和されていなかったらその手術は善ではないだろう。

例えば認知症で自分の病気を忘れてる人に大手術して、術後痛みと入院に苦しんだとしたらそれは多分一般的にも善とは言い切れないだろう。

例えば命が救われたけど大事なものが失われたら?治療という行為が善なのではなく治療により緩和がもたらされた時に治療は善となり得るのではないか。

 

緩和という言葉の捉え方の違いもあるのかもしれないが、私は人間は、緩和されたいのだろうと思う。楽になりたい、のだと思う。

 

苦しみからの緩和、苦楽、苦しいから手術受けるんだと思う。だから治療はどれも基本的には緩和だ。うーん、今ひとつ説明がうまくない。

 

生の時間というものをどう捉えるか、の問題でもある。その治療によって80年間の未来が得られたのかと、50年なのかと、10年なのかと、1年なのかと、10日なのかと、1日なのかと、日の長さではないのかと。私がもし、そりゃあ長い方が価値があるに決まってるよと言い切ってしまえる観念の持ち主だったら、こんな文章は書いてないのだけど。極論に聞こえるかもしれないが、80年も1日も同じだろという感覚がどこかにある。歴史に意識を向けると、80年が一瞬であるように感じ、患者の今に意識を向けると、今日の1日のその一瞬の偉大さが全てのように感じる。80年も1日も一瞬で、儚くて、重い。

 

80年と1日が同じな理由は、80年を想う手術後の今日は1日でしかない、ということもある。未来を想う今日はいつだって1日で、その1日1日を死ぬまで生きていく。病により生の何かしらが障害され、何かしらの苦が生じ、それを緩和/楽に、するために病院にくる。辛さを抱えてるのはいつだって今日の自分。だから救われたのは患者の80年ではなくて、80年を想う/80年の可能性を持つ、今日の患者でしかない。明日死ぬ可能性が高い患者の今日が緩和されるのと、それは本当に全然違うことなのか?というのが私の問いであり、身についた感性。

 

人生の価値など他人に決められるものでもないし、不確かな未来の保証は不可能で、例え手術で子供の命が救われたとしても、その価値は、未来から担保されるものではなく、今日を生きる人間のもの/ためでしかないだろう。

 

未来の時間の可能性が得られるということが医療において価値を持つのは、医療者も患者も、死を恐れているからなんだろうと思う。手塚治虫のブッダでシッダールタが思ったように、人間の苦は未来の死を恐れていることで生じる、みたいなこと。(勝手な本の解釈かもしれないが。)ああよかった!「まだ」死なない。みたいなのって、今日を生きるために必要な、大事な、まやかし。

 

家庭医療ぽいことを言うと、なんのために、治療してるのか。治療するために治療してるのか。そういう人もいるよね。渦中にいると、もうそうならないとやってられなかったり、するよね。でも全員、治療以外の、その人としての人生や生活があるので、治療の目的が、それらがうまくいくためじゃなくなっていってたら、ある日、あれ?って気づくかもしれない。気づいてる余裕なんて、ないかもしれない。なんのためはみんな違うけど、絶対ある。そんで私は概ねそれが、緩和されたい/楽になりたいから、なんじゃないかと思ってる。

 

だから何科にいても、緩和的であれと思いながら、何が苦しいんかなって考えるのを大事に、仕事してる。

言語化はまだ難しいが、少し前進。

 

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文化に優劣はない

昨日、インドに行って貧しさに衝撃を受けたっていう話を男の子に聞いた。なんだか随分とその視点が懐かしくて、昔の自分と重なった。

 

文化に優劣はない。

ある時からずっと自分の中の大事なテーマなのだけど、簡単に理解できるようで、実は私はこれは毎日自分に問い直さないとすぐ、優劣つけがちになってしまう。

 

私も19で2週間インドに行った時、国際協力やろうと思ったんだと思う。それでその方向で生きてみた。国連言語3つ覚えて、国際学専攻して文化人類学の本読んでドミニカ共和国にフィールドワークいってトマト植えたりした。でもなんか結局何したいんだかわかんないしとりあえず協力隊に2年間行ったら、最貧国と呼ばれたその暮らした国の人々の心があまりに豊かすぎて、そこにあった自分の心も豊かになっていきすぎて、あれれってなって、見てる世界は多分また変わった。

 

ひとりの人間はもちろん多面的な文化的背景視点を持っていて然りであって、それは人の数だけある。その中でそれぞれが共有しているものやしていないもの、ある文化圏での日常が別の文化圏では絶対悪とされていたり、また別の文化圏からするとそれを絶対悪とすること自体を悪とする、ということは、よくある。

 

イスラムの女性がヒジャブを被ることを強要されているとして、男尊女卑を否定するその人たちはあれを悪とする。その文化圏の中にいたら、あの文化を悪とすることが正義とされたりするのだけど、その押し付けに白人至上主義を見て、はたまた私は定のいい現代の植民地主義の香りを感じたりもする。と言うか植民地化はその時代では別に「定のいい」行いだったのだから、今も昔も同じことなのかなとも思う。

 

協力隊にも同じことを思っていた。現地の文化に触れた時に、その中に自分が親しんだもしかしたら唯一の文化と照らし合わせて嫌悪感を覚えたりする。そこまではいい。私も多分犬が食されることに対する嫌悪感は一生拭えないしその必要もない。タチの悪いのは、大した調査もせずに文化の中に一方的に悪を見出してそれを変えてあげようなどと頓珍漢に烏滸がましく思って騒ぐことだと思う。だけど、やりがち。私も何度もやってる。だから毎日問い直すの。文化に優劣はないよ、都合よく見てないか?本当に相手のことを考えてるか?って。

 

これは医療でもめちゃくちゃ大事にしたい視点なんだ。本当にその患者さんの話聴いてるか?自己は今どれくらい満足してる?患者さんのために動いてるか?自己満足が一番になってるか?別になっててもいいけど、自覚しないと、とか。

 

インドの話をしてくれた新しい友達、いい機会をありがとう。また話しましょう。

 

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シンディとミンディは双子で生まれたんだ。ブルキナの双子は1500g以下で産まれるとか普通だし、どっちも育つってのは稀で、ある日シンディは病気で一回心停止したけど蘇生した。心停止の理由は、家族の考えでは医療ミス。シンディは帰ってきてから身体がフニャフニャになって体幹おかしくなった。でも生きてて良かったねって思ってたらミンディが急死した。家族が考える死因は教えてくれたことを尊重してここには書かないけど宗教観がよく見えるものだった。写真の子はシンディと母のミシバオ。良いと悪いはひとつじゃない。私が医療の道に来た理由の一つはこの人たちの存在だと思う。ずっと考えたいんだよね。人を文化と共に大事にもしたい。私も、私の文化と共に大事にされたいから。

ネガティブケイパビリティ

医師国家試験に合格しました。
医療というジャンルの中には、興味のあることがたくさん詰まっているのだけど、日本だからかもしれないけど、苦手なことや押し付けられたくない思想も溢れていて、めっちゃ疲れたし、産まれ直したように成長もしたなと思う5年半(1年の休学含めて)でした。

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来月からは北海道札幌市手稲区にある、手稲渓仁会(ていねけいじんかい)病院で2年間の初期研修をすることになっています。俗に言う、研修医というやつです。色々病院を見に行ってこの病院を第一志望に選んだ理由が、生きやすそうだから。多様性を受け入れようという意志がある病院、人間って以外と医療界に少ないんですが、そういう雰囲気があったからここにしました。
ハルさんが小樽にいるし、踊りの世界にもまた入って行けたら良いなという想いもあり、楽しみです。

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専攻はどうするの?とよく聞かれますが、今の制度では基本的には研修医2年間を終えないことにはそこまで行けなくて、まずは1ヶ月単位とかでとりあえずいろんな科を2年間まわらないといけません。その先の方向性としては、色々考えているけど、アフリカで医療ができたらいいなと思う反面、日本では小児発達とがんと緩和ケアに興味を持っていて、どれもってなると何科なんだろうなあ〜。と考え中。最終的には家庭医なのかなとも思いますが、しんどさを抱えて生きる日々がある時にそのしんどさが軽くなる手伝いがしたいなとざっくりですがしっかりと思っています。

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新たな門出となり、20代後半まで医者になることを想像したことがほぼなかった私としては、医者か〜マジかよ大丈夫か?って普通に思います。笑

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高校時代から、毎日が大変すぎて、人生が長く続くイメージは持てませんでした。ブルキナファソで生活して、そして2年前には皮膚がんを見つけて治療を受けましたが、その2つの経験から、自分の死を以前に増してより近い未来に感じていました。自分の生きていく未来もあまり信じていなかったです。でも、それは、突然のいざという時、例えばブルキナファソ時代にクーデターが起きたから突然に無期限外出禁止を言い渡されたり(大体3、4週間で明けました)、2年前に突然悪性だったから〜とがん告知されたり、次のそういう時に焦らないように、いやいやそもそもそんな生きるって思ってないんで大丈夫ですという予防線を張っておきたくて身につけた、逃げ気味の死生観だったように思います。

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だけど今はもう一段階強くなって、全然予想してない、衝撃的で例えば最悪な未来が降ってきてもまあその時対応するっしょ別に。って思えてるので、すぐ死ぬんじゃないの?と思って生きるのをやめることができました。生きていれば色々あるけど、何が起きても都度受け止め、悩み、生きていくしかないし、そうしようと思っています。

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そういう心持ちになれたのは、よくわかんない状態を許容することができるようになってきたからだと思います。滋賀県で出会った緩和ケア医で私の師となった女性がいます。彼女に指摘された様々なことの中で最も私にしっくりきたのが、ネガティブケイパビリティの欠如でした。よくわかんない状態に身を置いておくことが、ずっと苦手でした。白黒つけたい、みたいなことなのかもしれないけど、なんかうまくいってない感じが許せない。でも生きるってそんな白黒綺麗につくようなことではないなってやっと納得しました。よくわかんないこととか、あんまり嬉しくない状態でいるだとか、まあそういうことも含めての日常で、その日々の継続の中で勝手に変化していくものもあって、それで生きてても別に大丈夫なのだという感覚になってきました。

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突然の変化や制限がとても苦手なことは変わっていないのだけど、打撃を受けていてもまあそれもそんなもんだと思えるようになってきたということかな。例えるなら、パニックにはなるけど、パニックになっている自身にパニックになって引きずったりはしないという感じです。

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5年半暮らした滋賀県は、本籍をそこに移したくらい愛着を持てました。親元を離れて暮らした初めての日本の地だったせいかもしれませんが、色んな課題が浮き彫りになって、長い時間悩んでいたような感じもありました。

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滋賀県で一緒に過ごしてくれたみんなありがとう。

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滋賀→新潟港→小樽港→札幌の手稲

に3日間かけて、犬2匹連れて引っ越してきました。出発の1週間前にドラムちゃん(昨年11月からうちの子になった元保護犬チワワ)が突然体調崩してご飯食べなくなって、結構ドタバタでしたが、ドラちゃんもお薬飲んで(継続中)回復してみんなで来れました。船酔いの薬を犬にしか用意してなくて、犬は元気だったけど人間は吐いてましたが、無事に着きました。江戸時代の上洛を終えたくらい遠かった気分。

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今日から新生活、札幌です。

空いてる部屋あるので遊びにきてね。