発達障害当事者研究

文部科学省は2022年12月、全国の公立小中学校の通常学級に通う児童生徒の8.8%に発達障害の可能性があるとの調査結果を発表した。このうち4割強は、授業中に丁寧な指導を受けられるようにする配慮・支援を受けていなかった。(朝日新聞の記事より引用)

 

質問①8.8%って聞いて、どういう印象?思ったより多い?少ない?そんなもんかなって感じ?

質問②4割強は配慮・支援を受けていないのは、受ける必要がないからって思った?全員受ける必要があるに違いないのに受けれていなくて遺憾だって思った?

 

私が発達障害の本を読み始めたのは、医大に入ってからで、基本的にはアスペルガー症候群の本をちょいちょい読んでた。理由は、自分がそうなんじゃないかと思ったから。人にそうやって言うと、えーアスペじゃないよ!アスペの人ってもっとこうでしょ?って結構言ってくれて、多分私を肯定してくれようとして言ってくれてんだけど、そういうのは、なんか、どうにも微妙な気分になる。いや、アスペでも全然良いんだよ、ってのが一つと、私が思う私のアスペっぽさってできるだけ隠してかなきゃいけないのかなー、って気持ちと、アスペの人って言ってもわかりやすいのからわかりにくいのまで色々いんのよ、ってことと。

 

発達障害という言葉を聞くと、『障害』という言葉そのものの持つ印象の強さからか、なんだかはっきりとしたラベルを貼られて定型発達(発達障害ではない一般的な発達の人をいう)から分けられたような衝撃を受けるかもしれないが、発達障害ってそもそも、グラデーションがあるスペクトラムっていうか、簡単にいうと、それっぽさはめっちゃ持ってる人もいればちょっと持ってる人もいて、うーんこれはどっちかなーっていう境界域が結構広くてそこをグレーゾーンと呼んだりする。診断どこでつけるかってのはもういろんな要因で総合的に見て、本人や家族に困りごとが生じているのかどうか、ってのも大事な判断材料でもある。診断つけたら、支援に繋げやすいってのもある。

 

発達障害は、ADHDと自閉症スペクトラム(のなかにアスペルガー症候群が含まれる)があって、それに知的障害(これも境界域が広い)がある人もない人も、学習障害(LDという)がある人もない人もいる。ADHDと自閉症スペクトラムを両方持つ人もいるし、片方の基準のみ満たす人もいる。幼稚園の時はADHD強めだったけど高校になったら自閉症スペクトラムが強めで困ってるかな、とか、変化していくものもあるし、診断が覆ることもある。私自身は、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)的な特性と、ADHDの衝動性と多動が加わって、そこにギフテッドという概念を加えた発達障害もしくはグレーゾーンの未診断の人、って感じに捉えている。多動、って動き回ってる子供をイメージすると思うんだけど、私の場合はそうじゃなくて興味が次々と移り変わって衝動のままに動くので、言うなれば、人生そのものが多動。こういうのって、一つのADHDの在り方かなと思う。別にそうじゃないADHDもたくさんいるけどね。

 

発達障害ってそもそも聞いたことないけどなんやねんって人はよかったら調べてー。ここで私がそれぞれの特性を色々と羅列するのもなんかそれで偏見産みそうな気がして、したくない。

 

まあ、ADHDの診断がついてるAさんとBさんとCさんとDさんがいても、うんうんわかった全員ADHDだからひとクラスにまとめてADHD用のやり方で授業したら良いんでしょ!とかそういう話じゃない。Aさんは薬飲んだら落ち着いたし知的障害もLDもないし通常学級で良いかな、困ってないかよく見てあげよう、Bさんは薬嫌いで飲めないな、集中するのとても大変だな、知的には境界域かな、通常学級通いつつ支援学級と行ったりきたりにしようか、CさんはIQ高くて理解度高いけど好きな科目しかやらないのかまあそれはとりあえずそれで良いかな勉強が遅れてるわけじゃないし、Dさんはどっちかっていうと自閉症スペクトラムが強めだな知的障害はないけどLDで文字の理解しんどいのねそれならパソコンの使用許可してもらって試験は音声で流してもらってタイピングで受けれるようにできないかな、みたいな。もっともっともっともっと、人の数だけ特性はある。だからそれぞれに対して、支援の必要の有無、も含めて、ひとりひとり、検討してあげれば良いし、診断がついていない人、がいるのも、支援自体が必要ないならまあそれもそれかな、と思う。なんのために診断すんのか?って大事なこと。

 

少し脱線するけど、上記の話を元小学校教諭の友人にしていたら、『学校ってやりたくないことだらけなんだけど、それをあーやりたくないだろーなーとか思いながらも、どうしたらこの子やりたくなるかな?って考えてやりたくさせるのが教師の仕事だと思ってたよ』『発達の子だけじゃなくて、定型の子たちもやる気がどうしたら出るかってそれぞれ違って、教師はそれを探って工夫して頑張ってたよ』と言われて、ちょっと惚れ直した。

 

発達障害って割と最近身近に聞かれるようになったテーマだし、それに対して考えたことなんて一度もない人ももちろんいて当たり前だとは思うのだけど、考えたことある皆さんの中で、え、これって自分のことじゃね?ってちょっと思ったことある人いますか?

多分ね、いっぱいいると思うのよ。ピラミッドの一番上が、診断されうる発達障害の人たちだったとして、それでも通常学級の8.8%だったら、診断基準は満たさないけどなんか色々当てはまるし困ってることもあるんだけど!みたいなグレーゾーンの人たちってピラミッドの上から2段目3段目にいるとしたら、いやいやそれってどんだけいるんよ、結構多いなってなるよね。

 

タイトルに戻ると、発達障害当事者研究ってのは、発達障害の当事者が、自身の特性に由来した生きづらさや物の見え方に焦点を当てて研究していくもの。私は昨年、東大で当事者研究をしている綾屋紗月さんの文章を読んで、アスペの人の感覚特性についての記載で、おお!わかる!ってなったのがあったり(全然わからん!ってなったのもいっぱいあるよ)して、やっぱ私アスペじゃーんってなった。そこから色々本を読んだり、医学生なので幸運にもその道の専門家たちとの出会いも重ねることができて、実際に発達障害外来の見学をたくさんさせていただくこともできて、特性由来で困ってたことを相談すると解説してくれる人(解説者)とも出会い、ものすごく良い感じに理解が深まっている途中。

 

私の解説者は緩和のお医者さんなんだが、彼女がずっと言い続けてくれるのが、もっと楽に生きることができるはずだからそれを探そう、できるように練習しよう、失敗しても最後じゃないよ、最後だと思っちゃうのは特性のせい、困った時に自分を卑下して思考停止で終わらせないで考えてみよう、ということ。

18歳の時に自閉症児と遊ぶボランティアに行って、電車の名前を言い続ける男の子に出会った時から、なんか自閉症の子たちって中身は私と似てる気がするってずっと思ってた。私の中身もそうそうそんな感じなんだけど、それをうまく隠して表出はしないでコミュ力高いみたいな顔して生きてんのよねー、みたいな。笑

アスペっぽいよな自分、って気づいてはいたんだけど、自分の日本での生きづらさがそれに由来してるってのは、人に教えてもらうまで気づかなかった。それでね、私の当事者研究においてだけじゃなくて子供たちに関しても「本人が楽に生きるために」診断つける、つけない、支援級入る、入らない、薬使う、使わない、その他色々、していくっていうその目的をぶれさせないことってめちゃくちゃ大事だと思う。本人の意思もしっかり聞きつつね。

 

自分の話を少ししとくと、発達障害の人って感覚過敏がある人が多いんだけど、(発達障害じゃなくても感覚過敏は誰でもあります!特にしんどい環境下ではみんな出やすい)私は掃除機の音と、トイレのヴォーって音が出る水切りと、ドライヤーと、前からも後ろからも声がするのと、突然の電話音と、蛍光灯の光と、最近のテレビの光(昔と何か変わったよね??)と、発泡スチロールの音と感触と、特定の毛布類の感触が、無理かな。家の中は結構暗くしてるし、掃除機は私がいないときにかけてくれるし、ドライヤーは静かなのを買って、最近は外では遮光メガネ使ったり、もする。我慢できないものは発泡スチロールくらいしかないんだけど、我慢してると、ものすごい疲れやすい!ということに最近やっと気づいた。というか誰でも、人がたーくさんいるパーティ会場に行ってエネルギーぐっちゃぐっちゃしてたら多分疲れるよね、なんかそういうのが、ちょっと過敏な感じ。

 

中高と勉強してなかった(することができなかった)のに医大に入れたのは、過集中の特性ゆえにだと思う。もちろん、初等教育をしっかり受けていたことも大きいし、英語がそもそも出来上がってたのも大きいけど、あの集中の仕方はやっぱ異様だったと思う。それができたのは、ネット講義があったから。私の高校時代はまだスマホもなかったし、パソコンなんて身近じゃなかったから、講義って教室でみんなで受けるものだった。集中、できなかったからあんなにやる気なかったんかなーと今になって思う。だから、医大入ろーって思った時にちょうどネット講義とかネットの塾とか流行ってたから、ラッキーだった。一人で、密室で、ネット講義聞いて勉強する、のは永遠にやってられた。あんなに学校行ってなかったのに、勉強してなかったのに、医大受かってる自分って、なんか変じゃない?ってのがきっかけで、発達障害に気づいた。

 

そうそう。医大生は発達障害の傾向を持っている人が多いです。特にアスペのグレーゾーンはそこらじゅうにいるんじゃないかな。でもその中でも基本的にはうまいこと困らずにこれた子たちが受かってるので、アバンギャルドで不安定な若者だった私とはまた全然違う、好青年たちがほとんどでしたけど。

 

ここ2週間、中規模の病院の、小児科の発達障害外来の見学をさせてもらってて、めっちゃこの領域で仕事したくなってきてる。もちろんいろんな医者がいるが、私がいいなあーって思ったのは、子供の支え方が、包括的だったこと。子供の一番そばにいるのは親(家族)とかで、一般に、一番そばにいる人が医者ではないよね。親が不安だと子供も不安。子供が不安定だと親もしんどい。親がしんどいと子供もソワソワガチャガチャわーーーってなったりする。なんかね、私がいいなーって思ったのは、医者が親としっかり繋がってあげてたとこ。

なんか医者って患者から遠くない?って思って医者になんのやめよ、介護士やってこって本気で考えてた時期もあったんだけど、家庭医療の先生が、これから彼女(患者さん)が生きていく中で、人生、生活を大きく揺るがすことが起きるかもしれない、その時に、僕はあなたの話を聞く準備ができてますよ、ってそれを伝えたくて今日の外来をしてる、どこにも持っていけない想いを持って行ってもいい場所が診察室だと思ってる、みたいなこと言った時に感動して号泣して、あー!これいい!医者も寄り添ってるやん!家庭医療やろう!って思ったんだけど、今回付かせてもらった小児発達外来の先生にも、同じものを感じた。

ちゃんと親を見てて、親の話を聞く準備ができてて、親は話していいんだ、この不安、この場所(診察室)に持って行ってもいいんだってわかってて、それは先生の日頃の真摯な向き合いの果てにある信頼とつながりだ、と思った。そういうつながりがそこにあったら、ちゃんと、ぐるんと包括的に、支えてあげられる、かもしれない。いろんなところから子供を支えるいろんな人がいるんだけど、それがちゃんと機能してるかな、って確認して修正して調整して気を配ってあげてる感じだった。子供本人、親、そして学校や行政やいろんなところと繋がって、うんうんこれなら大丈夫かな、やばくなったらちゃんと来てくれるな、あの子はあれが足りないな、もうちょっと近づいてみようか、とか、そういうこと、できる仕事なんじゃないかって、思わせてくれた。あーーー私こういうことがしたくて生きてきたのかもー!って思ってしまった。またこれも大きな衝動。笑 しかし私の衝動は、私をいくべき場所にいつも導いてくれるので、この特性は、ほんと長所。って思っていいんだよって教えてくれたのも、解説者してくれる緩和の先生。

 

よく、虐待を受けて育った人は親になった時にそれを繰り返す、って聞くじゃない?でもそれって全然みんなじゃないの。虐待しちゃう人はみんなじゃない。全然。じゃあ、何が違うのかな?って考えると、やっぱり『つながり』の存在なんじゃないかなあって思うの。発達障害児は定型発達児より、虐待の対象になりやすい。手がかかる子、育てにくい子、ってことも多いから、必然的に、被虐待児になる率は上がる。そう。虐待って親子の相性問題でもある。しっかりと繋がりが形成されてて、医者がそれを確認してあげて、その子と手を繋いでいてくれる大人の存在を確認して、その大人がいっぱいいっぱいにならないように支えを作って、ってそういうふうにしてたら、防げた虐待もあるかもなーって、思う。

虐待とまで行かずとも、親子関係の難しさとか、お家の困りごととか、子供自身も思春期でしんどいなってなった時とかに相談できる信頼できる場所、あるとめっちゃいいよね。

 

大学の発達外来の先生に、当事者研究してもいいよって言ってもらって、とても嬉しかった。当事者研究って学問としては文化人類学っぽいなあと思う。文化人類学も、著者が誰なのか、ってのがめっちゃ大事で、どこで生まれて人種は何で何してきてってのがまず大事で、その私が見たブルキナファソのダガラ族のアニミズム信仰について、とかね、例えば。その先生は、みゆがいいって言ってくれて、ああそういうのって嬉しいなって、思った。変わってるよねーとか昔から言われたけど、アメリカ行ってアフリカ行って4ヶ国語覚えてなんか多文化になりすぎてもういよいよ元々の変わってる部分と環境因子的に変わってった部分とわかんなくなって、その中で、普通のフリしなきゃって思うことも日本にいると私は結構多くて、大体嫌になってすぐ挫折するんだけど、その先生の前では素だったので、そう言ってもらえるのは嬉しいなあと思った。

 

日本、ちょっと生きにくいよ。私の特性は、アメリカでは目立たなかったというか、これのせいで困ることはなかった。アフリカでは多分逆に、長所として使えてた部分が多かった。海外で暮らしてた時は気楽だったので、感覚過敏もあんまり気になってなかったのよね。日本にいると、緊張してんのか、ちゃんとしなきゃって思うみたいで、過敏が増す。これ多分、共感する人結構いるんじゃないかな?

 

当事者研究したいなって思ってるけど、実は診断はついてない。それ専門にしてる精神科医が仲良しの人だったので聞きに行ったら、もう今みゆは文化的に多様すぎて、困難が文化的なことで生じてんのか元来の発達特性なのかとか診断つけんの無理だし、今つける意義もないって言われたのよね。発達障害ってそもそも、脳の使われ方が違うってことなので、異文化の人たちって感じだからね。定型発達の人はこれを見たらこれを連想するけど、発達特性あると違うよね、みたいな感じかな。でもそれって海外で育った人も違うよね、っていう。

だから、ニューヨークみたいに世界中の文化圏から人が集まって尊重し合うのが当たり前の場所だったり、ブルキナ(アフリカ)みたいにみゆはガイジン!全然違う!って過剰とも言えるほど私を別のものと思ってくれてる場所だったり、では、物の見え方がなんか違うね、ってことは当たり前の個性で、是正されるようなもんではなかったのよね。だから別に私も私の周りも、私の特性で困りはしなかった。ちなみに私の母は幼少期、私に育てにくさを感じたことがないらしい。いや、色々あったよ、と思うので、それはそれで母の物の見え方もどうなってるんだか不思議でもあるけど、そんな母親に育てられて、結構ラッキーだったこと多いなーと、思ってもいる。どうもありがとう。

 

発達障害ブログ初回はこんなところで。

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With Missibaou and Sindy